【 マルコ ファン バステン 】 188/80 1964-10-31  FW



シーズン 所属チーム リーグ 試合 ゴール
81 / 82 アヤックス Net1 1 1
82 / 83 アヤックス Net1 20 9
83 / 84 アヤックス Net1 26 28
84 / 85 アヤックス Net1 33 22
85 / 86 アヤックス Net1 26 37
86 / 87 アヤックス Net1 27 31
87 / 88 ACミラン Ita1 11 3
88 / 89 ACミラン Ita1 33 19
89 / 90 ACミラン Ita1 26 19
90 / 91 ACミラン Ita1 31 11
91 / 92 ACミラン Ita1 31 25
92 / 93 ACミラン Ita1 15 13
93 / 94 ACミラン Ita1 0 0
94 / 95 ACミラン Ita1 0 0
95 / 96 ACミラン Ita1 0 0
280 218

近代サッカー最高のセンターフォワードと評された究極のゴールハンター。
抜群のスピードと驚異的なバランス感覚を持ち、ペナルティエリアの中でも外でも、非常に高いレベルのプレーができる。
センターフォワードとしてヘディングが強く、競り合いにも強い。
アクロバティックなプレーも得意としており、素晴らしいポジショニングも持ち合わせている。
さらに柔軟なドリブルを得意とし、長い足を器用に使って次々をDFを置き去りにする。
サイドに流れたり、下がり気味の位置から得点をアシストすることも得意としており、精度の高いFKも蹴ることができる。
まさになんでもありの万能型ストライカーと言える。

元プロサッカー選手の父にサッカーを学び、アマチュアクラブで順調に成長を遂げ、その後わずか16歳でアヤックスと契約する。

81/82シーズンにトップデビューを果し、初出場で初ゴールを挙げている。
82/83シーズン、アヤックスには当時のオランダのエースであったキフトが在籍してあったため、出場機会はまだ限られたものであった、しかし、それでも20試合で9ゴールを挙げるという活躍を見せている。
このシーズンにアヤックスに復帰したヨハン・クライフはファン・バステンの才能に惚れこみ、自らの後継者として、自らの技術を教え込んだと言われている。
シーズン終了後、キフトはイタリアに活躍の場を移し、ここからファン・バステンの伝説が始まることになる。

83/84シーズン、エースとして開幕を迎えると、その得点感覚が爆発する。
チームは優勝を逃すが、28ゴールを挙げ得点王に輝き、その凄まじい才能にオランダ中が沸きあがった。

84/85シーズンも22ゴールで得点王に輝くと、チームをリーグ優勝に導き、名実共にアヤックスの顔として君臨することになる。

86/87シーズンまでアヤックスに在籍するが、4シーズン連続で得点王という偉業を達成する。
86/87シーズンのカップウイナーズ・カップではキャプテンとしてチームを引っ張り、決勝では自らのゴールでヨーロッパタイトルをものにし、
これを置き土産にイタリアのACミランに活躍の場を移す。


87/88シーズン、ACミランはサッキ監督の元、ゾーンプレスでイタリアを席巻する。
同じく、このシーズンに加入したグーリットはチームの中心として活躍し、リーグ優勝の原動力となった。
しかし、ファン・バステンはアヤックス時代の怪我の影響でわずか11試合の出場に留まり、ゴール数もわずか3という結果であった。

そして88年の欧州選手権を迎える。
この大会での背番号は「9」ではなく「12」であった、つまりエースとしてではなく控えとして大会に入ったのである。
グループリーグのイングランド戦でスタメン出場を果すといきなりハットトリックと達成し、レギュラーの座を掴む。
そして、準決勝の西ドイツ戦でも決勝ゴールを上げる。
決勝のソ連戦では、ほとんど角度のないところから、センタリングをダイレクトボレーで豪快に蹴りこみ、神がかり的な活躍でオランダの初タイトルの立役者となった。

この活躍が認められ、88年の欧州最優秀選手に選ばれている。

88/89シーズンから、ACミランでもレギュラーの座を掴みゴールを量産。
リーグ優勝は逃すがイタリアで初の得点王に輝く。
そして、チャンピオンズカップでもゴールを量産。
決勝ではルーマニアのステアウア・ブカレストを4対0で撃破、クラブでも見事にヨーロッパチャンピオンに輝く。
このチャンピオンズカップの活躍で2年連続で欧州最優秀選手に選ばれる。

89/90シーズン、マラドーナのナポリと激しい優勝争いを繰り広げるが優勝を逃した。
チャンピオンズカップでは、順調に勝ち進み決勝でポルトガルのベンフィカと対戦。
1対0でベンフィカを破り、2シーズン連続でヨーロッパの頂点に立った。

ファン・バステンは誰もが認める世界最高のストライカーとなり、そして90年のW杯を迎えた。

オランダは西ドイツに並ぶ優勝候補として大会に挑み、グループリーグではイングランド、アイルランド、エジプトという組合せとなった。
ファン・バステンの動きにはキレがなく、グループリーグで得点を挙げることはできなかった。
オランダはアイルランドと勝ち点、得失点、全てが並んだ状態で両チームがグループリーグ通過を決めた。
そのため決勝トーナメントの組合せを決めるために、ワールドカップ史上初のくじ引きが行われた。
その結果、アイルランドは1回戦でルーマニアとの対戦が決まり、そしてオランダは西ドイツとの対戦となった。

決勝トーナメント1回戦で西ドイツとの対戦となったが、この試合でもファン・バステンが輝くことはなかった。
西ドイツのオランダを研究し尽くした戦術により、オランダはいいところなく破れた。

90/91シーズン、サッキ監督との確執からいままでにない不振に陥る。
それでも11ゴールを挙げたのだが、リーグタイトルもヨーロッパタイトルも逃し、イタリアでの最悪のシーズンとなった。
このシーズン終了後、サッキはイタリア代表の監督に就任したため新しくカペッロが監督に就任する。
すると再びファン・バステンは素晴らしい動きを取り戻す。

91/92シーズン、完全のトップフォームを取り戻したこのストライカーを止めることは誰にもできなかった。
このシーズン、イタリアでの最高となる25ゴールを挙げ、ACミランに4シーズンぶりとなるリーグ優勝をもたらした。
そして、このパフォーマンスが評価され、歴代最多タイとなる3度目の欧州最優秀選手に選ばれた。

92年の欧州選手権には、万全の体制で大会に入った。
しかし、動きは悪くなかったのだがあまり活躍できず、準決勝のドイツ戦では延長の末PK戦では、唯一のPK失敗者となり大会を去ることとなった。

ファン・バステンはアヤックス時代にかかとを強烈はタックルで痛め、イタリアに渡ってからも何度も手術を受けていた。
イタリアでも左膝の半月板を故障、手術を受けていた。
ピッチでは華麗な動きを見せていたが、それを止めるために数多くのファールを受け続けた彼の両足は限界に来ていたのである。

92/93シーズン序盤は活躍したが、中盤以降は試合に出場することはなかった。
いままで幾度となく手術を受け、再起不能かと思われながらも、サポーターの期待に応えるようにピッチに戻ってきたファン・バステンであったが、
今回の離脱はいままでものとは違うものであった。


しかし、ファン・バステンは1度だけ戻ってきた。
このシーズンのチャンピオンズリーグ決勝。これ以上ない最高の舞台で突如スタメンに名を連ねたのである。
誰もが奇跡の復活であると信じた。。。。
しかし、彼のプレーに以前のようなキレはなかった。
結局この試合は1対0で破れ、再びピッチから姿を消した。

その後、辛く厳しいリハビリが続く。
ACミランは彼の復活を信じ、契約を更新し続けたが、ピッチに戻ることはなく95/96シーズン途中に現役引退を表明した。


代表での成績は58試合で24ゴールを挙げている。


20世紀最高のセンターフォワードと言われた男の選手生活は、実質11年という短いものでした。
ボディバランスが素晴らしく、本当に倒れそうでも倒れない選手でした。