
【 フリスト ストイチコフ 】 178/72 1966-2-8
FW
| シーズン | 所属 | リーグ | 試合 | ゴール |
| 82 / 83 | Hebros Harmanli | Bul1 | 11 | 4 |
| 83 / 84 | Hebros Harmanli | Bul1 | 21 | 10 |
| 84 / 85 | CSKAソフィア | Bul1 | 11 | 0 |
| 85 / 86 | CSKAソフィア | Bul1 | 0 |
0 |
| 86 / 87 | CSKAソフィア | Bul1 | 25 | 6 |
| 87 / 88 | CSKAソフィア | Bul1 | 27 | 14 |
| 88 / 89 | CSKAソフィア | Bul1 | 26 | 23 |
| 89 / 90 | CSKAソフィア | Bul1 | 30 | 38 |
| 90 / 91 | FCバルセロナ | Spa1 | 24 | 14 |
| 91 / 92 | FCバルセロナ | Spa1 | 32 | 17 |
| 92 / 93 | FCバルセロナ | Spa1 | 34 | 20 |
| 93 / 94 | FCバルセロナ | Spa1 | 34 | 16 |
| 94 / 95 | FCバルセロナ | Spa1 | 27 | 9 |
| 95 / 96 | パルマ | Ita1 | 23 | 5 |
| 96 / 97 | FCバルセロナ | Spa1 | 22 | 7 |
| 97 / 98 | FCバルセロナ | Spa1 | 4 | 0 |
| Al-Nasr | Sau1 | 5 | 1 | |
| 99 | 柏レイソル | Jpa1 | 12 | 5 |
| 00 | 柏レイソル | Jpa1 | 16 | 8 |
| Chicago Fire | U.S.A.1 | 18 | 9 | |
| 01 | Chicago Fire | U.S.A.1 | 17 | 6 |
| 02 | Chicago Fire | U.S.A.1 | 16 | 2 |
| 03 | DC United | U.S.A.1 | 21 | 4 |
| 計 | 456 | 218 |
繊細かつ豪快な左足、そしてフィジカルの強さを兼ね備えたブルガリアの王様。
強烈な個性を持ち、トラブルを起こすことは少なくなかったが、ピッチに立てば必ず結果を残す偉大なプレーヤーである。
82/83シーズンに地元のHebros
Harmanliというクラブでトップデビューする。
学生の頃は陸上競技もしており、その俊足を生かして活躍する。
プロ2シーズン目には10ゴールを挙げる活躍をし、翌84/85シーズンには名門CSKAソフィアに移籍する。
ここでは、FWとしてではなく、MFでプレーをすることになる。
しかしこのシーズン国内カップの試合で、揉め事を起こし、1年間の出場停止となってしまう。
86/87シーズンに出場停止がとけると、ストイチコフはMFで与えられた役割を果たしリーグ優勝に大きく貢献した。
翌87/88シーズンでは念願のFWとしてのポジションを与えられ、14ゴールを挙げる。
88/89シーズンには23ゴールを挙げ見事得点王に輝く。
さらにカップウイナーズ・カップでは、準決勝に進出。
準決勝ではFCバルセロナ相手に2ゴールを挙げたがチームは敗れた。
しかし、この活躍に目を付けたのが、対戦相手FCバルセロナのクライフ監督である。
クライフはストイチコフの獲得を希望、しかし同時にミカエル・ラウドルップの獲得に動いていた。
外国人枠で獲得できる選手は1人ということで、クライフは悩んだ末に、ミカエル・ラウドルップを獲得する。
念願のビッグクラブへの移籍が断たれたストイチコフは、クライフを見返すために、89/90シーズンに大暴れすることになる。
とりもとったり、なんと38ゴールを挙げ、ヨーロッパゴールデンブーツまで獲得してしまう。
そして、翌90/91シーズンにはFCバルセロナへ移籍することになる。
ここでクライフ監督の指導のもと選手として、一つ上の段階に上がる。
シーズン開幕から4試合連続ゴールを挙げる活躍を見せるが、シーズン中盤に審判への暴力で3ヶ月の出場停止となってしまう。
このシーズン3ヶ月の出場停止があったにも関わらず14ゴールを挙げ、クライフ監督のFCバルセロナ初優勝に大きく貢献した。
そしてここからバルセロナの黄金時代が始まる。
ミカエル・ラウドルップ、サリナス、バケーロ、ベギリスタイン、ロマーリオたちと組んだオフェンス陣は凄まじい破壊力を持ち、リーグ4連覇を果たした。
91/92シーズンにはヨーロッパチャンピオンズカップでも優勝している。
(93/94シーズンにも決勝に進出したがACミランに敗れる)
しかし94/95シーズンはW杯の得点王として臨むが、自身W杯の疲れからの不調や、チームのゴタゴタもあり5連覇を逃す。
(シーズン途中には師匠と崇めていた、クライフを批判することもあった)
翌95/96シーズンには、バルセロナを後にして、イタリアのパルマに移籍する。
開幕戦でいきなりゴールを挙げ活躍が期待されたが、チームのエースのゾラとスタイルが重なる事から、徐々に活躍の場をなくしてしまう。
結局このシーズンでわずか5ゴールしか挙げることができなかった。
96/97シーズンには再びバルセロナに復帰し、7ゴールを挙げる活躍を見せる。
しかし情熱が冷めてしまったのか、翌97/98シーズン途中にサウジアラビアのチームに移籍してしまう。
その後、Jリーグの柏レイソルや、アメリカのシカゴで活躍し03シーズンを最後に現役を引退。
代表では、83試合で37ゴールの成績を残している。
代表デビューは86年だったが、メジャー大会に初めて出場したのは、8年後の94年のW杯だった。
ストイチコフは自身6ゴールを決め、ブルガリアは4位の好成績を残す。
準々決勝のドイツ戦で決めたFKは、W杯の歴史に残るビューティフルゴールだった。
94年にはW杯の活躍が認められブルガリア人として初めてのバロンドールを受賞している。
この人の左足は本当に強烈です。その上精度がめちゃめちゃ高いので、GKはやっかいなことこの上なかったでしょう。
強烈な性格のイメージが強いですが、チームメイトからの人望は厚かったみたいです。
バルセロナでプレーしているときの年俸8千万円くらいだったそうです。
サッカーバブルが訪れる前とは言え、安すぎる!!
代表では、バラコフとめちゃめちゃ仲が悪かったのを覚えています。
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