【 ルベン ソサ 】 174/71 1966-4-25  FW



シーズン 所属チーム リーグ 試合 ゴール
82 ダヌビオ Uru1 22 1
83 ダヌビオ Uru1 19 9
84 ダヌビオ Uru1 26 9
85 ダヌビオ Uru1 5 8
85 / 86 サラゴサ Spa1 33 9
86 / 87 サラゴサ Spa1 37 6
87 / 88 サラゴサ Spa1 36 18
88 / 89 ラツィオ Ita1 33 8
89 / 90 ラツィオ Ita1 27 8
90 / 91 ラツィオ Ita1 33 11
91 / 92 ラツィオ Ita1 31 13
92 / 93 インテル Ita1 28 20
93 / 94 インテル Ita1 28 16
94 / 95 インテル Ita1 20 8
95 / 96 ボルシア・ドルトムント Dui1 17 3
96 / 97 ログロニェス Spa1 5 0
97 ナシオナル Uru1 - 13
98 ナシオナル Uru1 - 15
99 ナシオナル Uru1 22 5
00 ナシオナル Uru1 - -
01 ナシオナル Uru1 14 1
02 上海申花 Cha1 13 1
03 ナシオナル Uru1 11 1
04 ナシオナル Uru1 4 0
05 無所属 - - -
06 / 07 ラシン Uru1 2 0


80年代後半から90年代のウルグアイのスーパースター。
繊細なテクニックと、豪快な破壊力を兼ね備えた左足を武器にゴールを量産したストライカー。
また非常に身体能力も高く、スピードと驚異的なバネを持つ。
多少、ボールを持ちすぎる面もあったが、ドリブルテクニックは超一級品で、数人に囲まれても簡単に突破してしまう。
ゴールだけではなくアシスト能力も高く、多くのゴールを演出した。

ウルグアイ屈指の名門ダヌビオで82年にわずか16歳でデビュー。
83シーズンには、すでにレギュラーとして活躍するまでになった。

84年には18歳で代表デビューを果たすと、その活躍に目を付けたスペインのサラゴサからのオファーを受け、85/86シーズンから、スペインでプレーすることとなった。
スペインでも高い能力を発揮、初年度からレギュラーとして活躍すると、躍動感溢れるプレーで一躍人気者となる。
加入したシーズンには国内カップの優勝に大きく貢献。
87/88シーズンには18ゴールを挙げる好成績を収め、その活躍が認められた格好となり、イタリアのラツィオに移籍することとなった。

イタリアのプレッシャーの厳しい環境でも、実力をいかんなく発揮する。
ゴール量産まではいかなかったが、当時決して強豪とは言えなかったラツィオで攻撃を1人で牽引した。
91/92シーズンには、新しく加入したドイツ人ストライカー、リードレと2トップを組み、多くのアシストを記録すると共に、13ゴールを挙げ評価を高めた。

ラツィオでの4シーズンの活躍が評価され、92/93シーズンには名門インテルに引き抜かれる。
インテルではスキラッチ、シャリモフ、ベルティらと攻撃陣を形成する。
加入してからしばらくは、ビッグクラブ独特の空気に飲まれたのか、結果を残すことはできなかったが、徐々にチームにフィットすると、シーズン中盤からゴールを量産。
シーズン28試合で20ゴールを挙げるという大活躍を見せ、優勝は逃したがチームの2位という好成績の原動力となり、インテルの象徴的な選手となる。

93/94シーズンには、インテルにさらにもう一人にビッグネームが加わった。
オランダで天才の名を欲しいままにしてきた『アイスマン』こと、デニス・ベルカンプが加入した。
フロントもサポーターも、ソサとベルカンプの夢に2トップに、5シーズン振りのリーグ制覇の期待を寄せた。
しかしその期待は大きく裏切られる。
両者共にボールをキープし、攻撃に参加していくタイプであったため、コンビネーションは最悪。
さらにプレーが咬み合わないことから、2人の間に確執が生まれた。

ソサは孤軍奮闘を見せ、16ゴールを挙げたが、チームは持ち直すことはなく、シーズン13位という最悪の結果で終わった。
しかし、国内リーグでは最悪ではあったが、UEFAカップではソサ、ベルカンプ共に大活躍。
決勝ではオーストリアのザルツブルグを破り、見事に優勝を果たした。

94/95シーズンも、ソサとベルカンプの2トップは機能することはなかった。
さらにソサは故障のためヨーロッパに渡って最も少ない、20試合の出場に留まった。
それでも大事な試合には出場し、昨シーズン13位と低迷したチームにUEFAカップ出場権もたらし、このシーズンを最後にイタリアを去った。

95/96シーズン、当時ドイツ最強のチームであったボルシア・ドルトムントに鳴り物入りで移籍する。
しかし、イタリア時代の故障の影響でほとんど活躍することはできなかった。
チームはリーグ優勝を果たしたものの、シーズン3ゴールという結果に終わった。

96/97はスペインのログロニェスに移籍したが、ほとんどプレーをすることなく、シーズン途中で寂しくヨーロッパを去った。

97シーズンからは、ウルグアイの名門ナシオナルに移籍し、12年ぶりに国内リーグに復帰する。
ヨーロッパでの数シーズンの不振から、サポーターらは歓迎はしたものの、それほど大くの期待はしていなかった。
しかし見事な復活を遂げる。


97シーズン、13ゴールを挙げると、翌98シーズンには15ゴールを挙げ、得点王に輝くと共に、チームにリーグ優勝をもたらした。
さらに、その活躍は国内だけではとどまらず、99シーズンのリベルタドーレス杯でも得点王に輝くなど、まさに第2の青春を謳歌した。

その後、一時期中国もでプレーしたが、ナシオナルで04シーズンまでプレーし、契約期間満了に伴いチームを去った。

これで誰もが引退だと思ったが、06/07シーズンにはラシンというクラブで復帰を果たした。
そして、このシーズン途中、25年にも渡る現役生活に別れを告げた。


代表では46試合に出場し、19ゴールを挙げている。
82年に代表デビューすると、その後、フランチェスコリと共にウルグアイの顔として活躍。
しかし、86年のW杯ではメンバーから漏れる。

87年の南米選手権では、フランチェスコリらと共に攻撃的サッカーを展開、南米制覇に大きく貢献した。
89年の南米選手権でも、エースとして活躍。優勝はブラジルに譲り、得点王の座はベベットさらわれたが、
南米最高のFWとして評価を得るまでになった。


そして、エースとして90年W杯を迎えた。
しかし、W杯では見せ場を作ることなく、いいところなく大会を去った。

95年の南米選手権でも優勝メンバーに名を連ねたが、世代交代が進む中、出場機会はあまりなかった。


80年代中盤の以降では、モンテーロと並び、ヨーロッパで最も成功したウルグアイ人です。
小さい怪我が多い選手でした。