【 ナスコ シラコフ 】 186/82 1962-4-26  FW/MF



シーズン 所属 リーグ 試合 ゴール
80 / 81 レフスキ・ソフィア Bul1 3 0
Spartak Varna Bul1 21 4
81 / 82 Haskovo Bul1 30 8
82 / 83 Haskovo Bul1 5 0
レフスキ・ソフィア Bul1 24 4
83 / 84 レフスキ・ソフィア Bul1 17 2
84 / 85 レフスキ・ソフィア Bul1 19 15
85 / 86 Vitosha Sofia Bul1 11 4
86 / 87 Vitosha Sofia Bul1 30 36
87 / 88 Vitosha Sofia Bul1 30 28
88 / 89 サラゴサ Spa1 12 3
89 / 90 サラゴサ Spa1 29 7
90 / 91 エスパニョール Spa1 24 3
91 / 92 レフスキ・ソフィア Bul1 27 26
92 / 93 ランス Fra1 11 3
レフスキ・ソフィア Bul1 12 9
93 / 94 レフスキ・ソフィア Bul1 35 30
94 / 95 レフスキ・ソフィア Bul1 10 12
95 / 96 Botev Plovdiv Bul1 5 0
スラヴィア・ソフィア Bul1 20 16
96 / 97 スラヴィア・ソフィア Bul1 12 3
97 / 98 スラヴィア・ソフィア Bul1 1 0
388 213

同世代ストイチコフ、ペネフ、バラコフのように国外ではあまり成績を残すことはできなかったが、圧倒的な得点力でゴールを量産したプレイヤー。
ブルガリア国内では抜群の人気を誇った。

186センチという恵まれた体格を活かし、センターフォワードとして活躍をしたが、最も得意とするプレーは、重心の低い独特なドリブルでの突破からのシュート。
主にセカンドトップやオフェンシブハーフとして活躍した。

ブルガリアの首都ソフィアで生まれ育ち、地元チームの名門レフスキ・ソフィアのユースチームでサッカーを学ぶ。
80/81シーズンには念願のトップデビューを果たすが、すぐにレンタルで武者修行に出ることとなった。

レンタル先で順調に成長を遂げ、82/83シーズンにはレフスキ・ソフィアに復帰。
84/85シーズンには、19試合で15ゴールという素晴らしい成績を残したが、85/86シーズンには、Vitosha Sofiaに移籍する。

移籍初年度は思うような活躍を見せることはできなかったが、86/87シーズンついに天性のゴール感覚が目覚めた。
開幕から驚異的なペースでゴールを量産すると、シーズン30試合で36ゴールという成績を残し、見事に得点王に輝くと共に、チームの躍進に大きく貢献した。

87/88シーズンも開幕から快調にゴールを量産。
28ゴールを挙げ、2シーズン連続の得点王に輝くと共に、Vitosha Sofiaにリーグ初優勝の栄冠をもたらした。

そして、その活躍に目をつけたのが、ルーベン・ソサの後釜を探していたスペインのサラゴサであった。
当時、まだストイチコフやペネフも国外進出を果たしておらず、同世代では最初の国外挑戦となった。

88/89シーズン、サラゴサにはこれといったライバルはいなかったが、開幕からレギュラーとなることはできなかった。
ブルガリアでは圧倒的な力を見せたが、世界最高レベルのスペインでは苦渋を舐め、わずか3ゴールという結果で終わった。

89/90シーズンは、29試合に出場し7ゴールをいう、まずまずの結果を残したが、
サラゴサがルーマニア代表のマテウツ獲得に成功したことにため、シーズン終了後にエスパニョールへ放出となった。
エスパニョールでも結果を残すことはできず、スペインでは成功を収めることはできなかった。

そして、失意のシラコフに声を掛けたのは、古巣レフスキ・ソフィアであった。
91/92シーズンにレフスキ・ソフィアに復帰する。
すると、かつてのトップフォームを取り戻し、26ゴールを挙げ自身3度目の得点王に輝いた。

92/93シーズン、再び国外での挑戦を決意する。
新しい挑戦の地は、フランスのランスであった。
しかし、ランスでも全くチームには馴染むことはできす、活躍できないまま、シーズン途中に帰国することとなった。

再びレフスキ・ソフィアに復帰すると、やはりブルガリアの地では別人のような活躍を見せた。
シーズン途中に復帰したにもかかわらず、チームの優勝の原動力となる活躍を見せた。
そして、このシーズンからのチームの3連覇に大きく貢献し、93/94シーズンには4度目の得点王となっている。

95/96シーズン途中からは、スラヴィア・ソフィアに移籍。
すると、シーズン途中の加入ながら16ゴールを挙げ、リーグ優勝の立役者となった。
自身としては4シーズン連続の優勝を果たしたこととなる。

しかし、その後、年齢からくる衰えを隠すことはできず、また、故障のためプレーする機会を徐々になくし、97/98シーズンを最後に現役を引退した。


代表としては、86試合に出場し、23ゴールを記録している。

83年にデビューすると、たちまちブルガリア中心選手となる。
86年のW杯にはレギュラーとして出場し、グループリーグ初戦のイタリア戦では終了間際の同点ゴールを挙げ、世界にその名を知らしめた。
しかし、ブルガリアは2戦目の韓国との痛恨の引き分けが響き、グループリーグ敗退となった。

ブルガリアのエース格として活躍していたシラコフであったが、
コスタディノフ、ストイチコフ、ペネフのという3人のワールドクラスのストライカーが台頭してくると、徐々に活躍の場を失った。

それでも、限られた時間の中で結果を残しつづけ、チームには無くてはならない存在となった。

94年のW杯では、ペネフが病気で大会を欠場したため、ピッチに立つ機会を増やしチームに貢献した。
グループリーグのアルゼンチン戦では終了間際にダメ押しゴールを奪い、8年ぶりにW杯の舞台で得点を挙げた。
準決勝のイタリア戦では、鋭いドリブル突破からPKを奪う活躍を見せたが、R・バッジオの2ゴールで敗れ、大会を去った。

世代で言うと、ストイチコフ、ペネフ、バラコフ、コスタディノフ、レチコフというスター世代より、少しだけ前の選手です。
国外では全く活躍することはできませんでしたが、ブルガリア国内ではストイチコフよりも成績を残しています。