【 ギャリー リネカー 】 177/74 1960-11-30  FW



シーズン 所属 リーグ 試合 ゴール
78 / 79 レスター・C Eng2 7 1
79 / 80 レスター・C Eng2 19 3
80 / 81 レスター・C Eng1 9 2
81 / 82 レスター・C Eng2 39 17
82 / 83 レスター・C Eng2 40 26
83 / 84 レスター・C Eng1 39 22
84 / 85 レスター・C Eng1 41 24
85 / 86 エバートン Eng1 41 30
86 / 87 FCバルセロナ Spa1 41 21
87 / 88 FCバルセロナ Spa1 36 18
88 / 89 FCバルセロナ Spa1 27 6
89 / 90 トットナム・H Eng1 38 24
90 / 91 トットナム・H Eng1 32 15
91 / 92 トットナム・H Eng1 35 28
93 名古屋クランパスエイト Jpa1 7 1
94 名古屋クランパスエイト Jpa1 11 4
462 242

イングランドサッカー史に輝く点取屋。
自らも認めるようにテクニックは決して高くないが、スピードと抜群の俊敏性を持ち、このストライカーをゴール前で捕まえることは困難を極めた。
そして、なによりもポジショニングとボールを呼び込む動き、そしてゴール前での集中力がずば抜けている。
多くのチームでプレーしたが、優秀なパサーがいようがいまいが、関係なくゴールを量産した。
また、プレー以上に明るく人懐っこいキャラクターで所属した全てのチームで愛された。(名古屋は除く。。。。)

地元レスター・シティの下部組織でサッカーを学び、78/79シーズンに当時2部に所属していたトップチームでデビューを果たす。
80/81シーズンには、チームは1部昇格を果たし、そのシーズンにトップリーグでの初ゴールを挙げるが、チームは再び降格する。

81/82シーズン、チームのエースストラーカーとしての役割を与えられると、ゴールを量産し始める。
このシーズン17ゴールを挙げる活躍を見せると、翌82/83シーズンには、新しく加入したストライカー、アラン・スミスと共に強力2トップを組み、
26ゴールを挙げ、チームの1部昇格の立役者となる。


そして、その抜群の得点感覚は1部でもいかんなく発揮されることとなる。
強豪とは言えないチームで、83/84シーズンに22ゴールを挙げると、翌84/85シーズンには24ゴールを挙げ、得点王に輝きイングランド屈指のストライカーとしての地位を確立する。

85/86シーズンにはエバートンに移籍。
ここでも、その抜群の決定力を発揮する。
リヴァプールとの優勝争いに敗れ2位に終わるも、30ゴールを挙げ2シーズン連続で得点王に輝く。

そして86年のW杯を迎えた。
イングランドは決して期待されていたチームではなかった。
大会が始まるとやはり苦戦を強いられる。

グループリーグ初戦のポルトガルは破れ、続く格下のモロッコにもスコアレスドローに終わり、イングランドのW杯は終わろうとしていた。
しかし、グループリーグ最終戦のポーランド戦、リネカーがこの大会でイングランドの初ゴールを挙げると、さらに2得点を挙げハットトリックを達成。
この活躍でポーランドを破り、さらに得失点差で決勝トーナメント進出を決めた。

決勝トーナメントの1回戦のパラグアイ戦でも、リネカーは2得点を挙げ、勝利の立役者となった。
準々決勝ではアルゼンチンと対戦。
「神の手」と「5人抜き」によって敗れるが、この試合でも1ゴールを挙げたリネカーは、通算6ゴールで大会の得点王に輝いた。

W杯の活躍によって、世界的なストライカーとなったリネカーに白羽の矢を立てたのが、FCバルセロナであった。
当時FCバルセロナの監督であった、イングランド人、テリー・ベナブルスがリネカーを当時のクラブ史上最高額の移籍金で獲得した。
さらに、相方としてウェールズ人ストライカー、マーク・ヒューズも獲得した。

マーク・ヒューズはバルセロナの街に馴染むことはできず、期待はずれに終わったが、
リネカーは素早くスペイン語とカタルーニャ語を覚え、バルセロナの街に馴染み、試合でもゴールを量産した。


キーニ以来、決定力が高いFWがいなかったFCバルセロナにとって、リネカーは最高の補強であった。
86/87シーズン、21ゴールを挙げ、素晴らしいパフォーマンスを披露したリネカーは、
FCバルセロナのサポーターのアイドルとなり、さらにリネカーもバルセロナの街とチームをこよなく愛した。


この時代はレアル・マドリードが黄金時代であったため、優勝は逃がしたが、クラシコではハットトリックを達成している。

87/88シーズンもエースとして活躍。
このシーズンもレアル・マドリードにリーグタイトルを奪われたが、国内カップで優勝し、チームにタイトルをもたらした。
リネカーはFCバルセロナで不動の地位を築いていたが、新しい指揮官によって微妙な立場に追いやられることになる。
88/89シーズン、開幕から病気のため戦線を離脱していたリネカーは、シーズン途中でチームに戻ると、
クライフ監督に3トップのウイングのポジションでプレーするように言われる。


もちろん、リネカーはウイングなどしたことはない、しかしチームのセンターフォワードのポジションはすでにフリオ・サリナスに奪われていた。
リネカーは渋々ウイングのポジションを受け入れプレーしたが、結果を残す事はできなかった。

リネカーは後に「クライフはチームから追い出すためにウイングでプレーさせた」と言っている。
しかし、クライフは「チームは非常に攻撃的なチームであり、センターには多くの選手が集まるためスペースが無く、
リネカーのスピードを生かすことができない、そのためにウイングに配置した」と説明している。


どちらにしろ、リネカーにとってFCバルセロナはすでに居心地のよいチームではなくなってしまった。
このシーズン、カップウイナーズ・カップ制覇に貢献したものの、シーズン終了後にはバルセロナを後にした。

89/90シーズンからは再びイングランドに戻り、トットナムでプレーする。
ここでは、バルセロナでの鬱憤を晴らすように見事な活躍を見せる。
ガスコインからの華麗なパスを次々とゴールに流し込み、ゴールを量産。
24ゴールを挙げ、自身3度目となる得点王に輝く。

90年のW杯では、開幕からリネカーは絶好調であった。
グループリーグ初戦のアイルランド戦で決勝ゴールを挙げ、イングランドはその後順調に勝ち進んだ。
準々決勝では、大会に旋風を巻き起こしていたカメルーンと対戦。
1点リードされた場面で、83分にPKを決め、さらに延長でも決勝となるPKを決め勝利をもたらした。
(カメルーン戦での得点はPK2本であるが、この試合のリネカーの動きは本当に素晴らしかった。)

準決勝では優勝候補筆頭の西ドイツと対戦。
1点リードされた後半、リネカーが起死回生の同点ゴールを挙げたが、PK戦の末敗れた。

90/91シーズンは、国内カップで優勝を果たし、91/92シーズンには28ゴールを挙げ年間最優秀選手に選ばれる活躍を見せた。

そして、93年からは日本に活躍の場を移す。
現役バリバリの世界的ストライカーがサッカー後進国の日本でプレーするのだから、誰もがその活躍を信じて疑わなかった。
しかし、日本では怪我のため2シーズンで18試合しか出場できず、わずか5ゴールの結果しか残せずに終わり、94シーズンの終了後、現役を引退した。

スーパースターには似合わない、なんとも寂しい最後であった。


代表では80試合で48ゴールを挙げている。
この48ゴールというのは、ボビー・チャールトンの49ゴールに次ぐ歴代2位の記録である。
49ゴールに並ぶPKのチャンスがあったが、これを外している。

本当に素晴らしい成績を残した凄いストライカーであるが、もう一つ誰にも真似できないことをしている。
それは現役の16年間で、レッドカードはおろかイエローカードすら1枚も出されたことにないのである。
こんな超クリーンな選手は2度と現れないだろう。


リネカー引退後のイングランド代表は低迷します。
しばらくしてシアラーという、リネカーに勝るとも劣らないストライカーが現れますが、
リネカーのように大舞台のここ一番という場面で得点をあげることはできず、英雄にはなれませんでした。

これほどの成績を残していますが、リーグ優勝の経験はありません。


ベッカムがアメリカのチームに移籍という報道があった時に、
「半引退に等しい。僕もキャリアの最後には日本に行って同じようなことをした。日本人にサッカーを広めて金を稼ぐことは面白い経験だった。」という興味深い発言をしています。