【 オレグ プロタソフ 】 185/77 1964-2-4  FW



シーズン 所属 リーグ 試合 ゴール
82 ドニプロ・ドニプロペトロフシク U.S.S.R.1 4 1
83 ドニプロ・ドニプロペトロフシク U.S.S.R.1 21 7
84 ドニプロ・ドニプロペトロフシク U.S.S.R.1 34 17
85 ドニプロ・ドニプロペトロフシク U.S.S.R.1 33 35
86 ドニプロ・ドニプロペトロフシク U.S.S.R.1 23 17
87 ドニプロ・ドニプロペトロフシク U.S.S.R.1 30 18
88 ディナモ・キエフ U.S.S.R.1 29 11
89 ディナモ・キエフ U.S.S.R.1 26 8
90 ディナモ・キエフ U.S.S.R.1 16 12
90 / 91 オリンピアコス Gre1 29 13
91 / 92 オリンピアコス Gre1 21 15
92 / 93 オリンピアコス Gre1 24 14
93 / 94 オリンピアコス Gre1 9 8
94 ガンバ大阪 Jap1 37 13
95 ガンバ大阪 Jap1 28 13
96 / 97 Veria Gre1 30 4
97 / 98 Veria Gre1 32 7
98 / 99 Proodeftiki Gre1 25 5
451 218


旧ソ連を代表するストライカー。
長身で当りに強く、スピードも兼ね備えている。
「西のファン・バステン」「東のプロタソフ」とまで言われた、欧州屈指のストライカーの1人であった。

ウクライナの地元チームのドニプロ・ドニプロペトロフシクのユースでサッカーを学び、18歳でトップデビュー。

デビュー翌シーズンの、83シーズンには7ゴールを挙げ、チームのリーグ優勝に貢献する。
その後、エースストライカーとして君臨。

85シーズンには、35ゴールを挙げ得点王に輝くと共に、ヨーロッパのシルバーブーツにも輝いている。
87シーズンにもリーグ得点王に輝くと、同じウクライナの強豪であるディナモ・キエフに移籍。
ここでは、ユーラン、カンチェルスキス、ザヴァロフ、ベラノフ、サレンコという名手と共にプレー。

90シーズン途中には、ギリシャの名門オリンピアコスに移籍することになる。

このシーズン、プロタソフは移籍するまでに16試合で12ゴールを挙げていた。
結局この12ゴールでシーズンの得点王に輝き、このシーズンのチームの優勝にも大きく貢献したことになる。

90/91シーズンに、オリンピアコスに移籍してからもエースストライカーとして活躍するも、チームは当時、パナシナイコスやAEKアテネらと比べ戦力的に劣っており、タイトルを獲得することはできなかった。

93/94シーズンの途中にはオリンピアコスを去り、日本のガンバ大阪に移籍する。

ガンバ大阪はプロタソフの他に、アレイニコフとツベイバも獲得し、一気に3人の旧ソ連代表を獲得した。
この3人のプレーはレベルの高いものであったが、如何せん当時のガンバ大阪のチーム力が非常に低かったため、タイトルには無縁であった。

96/97シーズンには、ギリシャリーグに復帰し、3シーズンプレーした後に現役を引退した。

代表ではソ連代表として68試合で29ゴール。
ウクライナ代表として1試合に出場している。

ソ連代表での29ゴールというのは、ブロヒンに次ぐ歴代2の記録である。
W杯には86年と90年の出場した。
86年のW杯ではチームは好調であったが、プロタソフはノーゴールに終わっている。
90年のW杯ではグループリーグのカメルーン戦でゴールを挙げたが、チームはグループリーグ敗退となった。

代表でのハイライトは、88年の欧州選手権。
プロタソフはチームのエースとして素晴らしいパフォーマンスを披露。
2ゴールを挙げ、チームを決勝に導いた。
決勝ではファン・バステンのスーパーゴールの前に破れるも、その活躍は高く評価された。


ソ連時代や代表での活躍と比べると、ギリシャや日本での活躍は物足りないように思います。
現役引退後は監督として活躍していて、オリンピアコスをリーグ優勝に導くなど、なかなかの手腕を発揮しています。