
【 ルボスラフ ペネフ 】 189/87 1966-8-31
FW
| シーズン | 所属 | リーグ | 試合 | ゴール |
| 85 / 86 | CSKAソフィア | Bul1 | 20 | 2 |
| 86 / 87 | CSKAソフィア | Bul1 | 27 | 19 |
| 87 / 88 | CSKAソフィア | Bul1 | 26 | 21 |
| 88 / 89 | CSKAソフィア | Bul1 | 22 | 21 |
| 89 / 90 | CSKAソフィア | Bul1 | 6 | 12 |
| ヴァレンシア | Spa1 | 27 | 13 | |
| 90 / 91 | ヴァレンシア | Spa1 | 30 | 7 |
| 91 / 92 | ヴァレンシア | Spa1 | 35 | 13 |
| 92 / 93 | ヴァレンシア | Spa1 | 34 | 20 |
| 93 / 94 | ヴァレンシア | Spa1 | 16 | 5 |
| 94 / 95 | ヴァレンシア | Spa1 | 25 | 9 |
| 95 / 96 | アトレティコ・マドリード | Spa1 | 41 | 16 |
| 96 / 97 | コンポステーラ | Spa1 | 35 | 16 |
| 97 / 98 | コンポステーラ | Spa1 | 34 | 16 |
| 98 / 99 | セルタ・ヴィゴ | Spa1 | 32 | 14 |
| 99 / 00 | 無所属 | - | - | - |
| 00 / 01 | 無所属 | - | - | - |
| 01 / 02 | CSKAソフィア | Bul1 | 16 | 8 |
| 計 | 426 | 212 |
長身を生かしたヘディンと、左足のシュートには絶対の自信を持つストライカー。
大柄な体格を生かしたポストワークを得意とし、得点だけでなくアシストも得意とした。
戦術理解度が高く、前線で様々な役割をはたした。。
85/86シーズンに、名門CSKAソフィアでデビューすると、翌86/87シーズンからはレギュラーとしてプレーする。
このシーズン、19ゴールを挙げリーグ優勝に大きく貢献する活躍を見せる。
87/88シーズンからCSKAソフィアはペネフ、コスタディノフ、ストイチコフの3トップを採用。
88/89シーズンには、3人で56ゴールを挙げ、リーグを制覇。
さらにカップウイナーズ・カップでは、ベスト4という好成績を残した。
89/90シーズンが始まると、6試合で12ゴールという驚異的なペースでゴールを重ね、シーズン途中にスペインのヴァレンシアに引き抜かれることになる。
このシーズン、途中加入ながらも13ゴールを挙げ、チームの2位という好成績に大きく貢献した。
その後も、着実にゴールを重ね、92/93シーズンには20ゴールを挙げ、リーグ有数のFWとなる。
しかし、93/94シーズンの途中に体調の不良を訴え、検査の結果ガンが見つかる。
治療のため現役を引退したが、不屈の精神でガンを克服。
94/95シーズンにはアトレティコ・マドリードで現役復帰を果たす。
キコ、カミネロ、パンティッチ、シメオネらと共に強力アタック陣を形成。
ペネフはチームトップとなる16ゴールを挙げ、29シーズンぶりのリーグ優勝に大きく貢献。
さらに国内カップも制覇し、見事2冠を達成した。
翌96/97シーズンからは、コンポステーラでプレー。
決して大きなクラブと言えないチームで、2シーズン連続で16ゴールを挙げ、実力をいかんなく発揮。
98/99シーズンにはセルタ・ヴィゴに移籍する。
ここでは、セルタのアタッキングサッカーの前線の基準点として、素晴らしい活躍を見せる。
ペネフと1トップに置き、モストボイ、カルピン、レヴィボ、マジーニョらの繰り出す攻撃サッカーはリーグを席巻。
このシーズンのセルタのサッカーは高い評価を受け、ヨハン・クライフまでも絶賛するほどのものであった。
もちろん翌シーズンもセルタでプレーすると思われていたが、突然の現役引退を表明する。
引退の理由は古巣CSKAソフィアの会長に就任するためであった。
チーム関係者もサポーターも引退を惜しんだが、低迷期にあった古巣を立て直すためにピッチを去った。
その後、CSKAソフィアの会長としてチームのために尽力。
01/02シーズンには、不甲斐ない戦いを続けるチームに活を入れるため、半シーズンだけ現役に復帰。
8ゴールを挙げ、チームを引っ張った。
代表では63試合に出場し13ゴールを挙げている。
94年のW杯予選では中心メンバーとして予選突破に大きく貢献。
しかしながら、病気ため夢であったW杯出場を断たれてしまう。
98年のW杯ではチームは3戦全敗という結果に終わったが、夢であったW杯の舞台に立った。
94年のW杯に出場できなかったため、ストイチコフやレチコフと比べ日本での知名度は低いかもしれませんが、ブルガリアの誇るスーパースターの1人です。
94年のブルガリアには高さがなかったので、もし彼がいれば一味違うチームになっていたでしょう。