【 パウロ・ソウザ (Paulo Sousa)】 177/73 1970-8-30 MF
シーズン | 所属チーム | 国 | 試合 | ゴール |
89 / 90 | ベンフィカ | Por1 | 2 | 0 |
90 / 91 | ベンフィカ | Por1 | 36 | 0 |
91 / 92 | ベンフィカ | Por1 | 24 | 1 |
92 / 93 | ベンフィカ | Por1 | 25 | 0 |
93 / 94 | S・リズボン | Por1 | 31 | 2 |
94 / 95 | ユベントス | Ita1 | 26 | 1 |
95 / 96 | ユベントス | Ita1 | 28 | 0 |
96 / 97 | ボルシア・ドルトムント | Due1 | 11 | 1 |
97 / 98 | ボルシア・ドルトムント | Deu1 | 16 | 0 |
インテル | Ita1 | 11 | 0 | |
98 / 99 | インテル | Ita1 | 10 | 0 |
99 / 00 | インテル | Ita1 | 10 | 0 |
パルマ | Ita1 | 8 | 0 | |
00 / 01 | パナシナイコス | Ita1 | 6 | 0 |
01 / 02 | パナシナイコス | Ita1 | 4 | 0 |
エスパニョール | Spa1 | 9 | 0 | |
計 | 257 | 5 |
超人的なスタミナで中盤を動き回り、甘いマスクに似合わぬ激しいプレーでボールを奪う。
そして、世界最高級の戦術眼で試合を組み立てた。「ポルトガル・ゴールデンエイジ」の一人である。
サッカー史に名を残すような素晴らしい選手であったが、20代半ばから故障に苦しみ、輝きを取り戻せぬまま31歳の若さでピッチを去った悲運の選手。
89年にポルトガルの名門ベンフィカでデビュー。
その年に行われたワールドユースでは、チームの中心として縦横無尽の活躍を見せ、大会制覇の原動力となる。
90/91シーズンからはレギュラーとして活躍し、リーグ優勝に大きく貢献。
その後も若くしてベンフィカのチームリーダーとしてルイ・コスタやジョアン・ピントらと共に活躍。
このシーズン途中には代表に初召集され、その後チームにはなくてならない存在となった。
93/94シーズンには最大のライバルであるスポルティング・リズボンに移籍する。
ここでは、フィーゴ、バラコフ、ユスコビアク、カデテという攻撃陣を見事に操るが、古巣ベンフィカに優勝をさらわれる。
代表では94年W杯欧州予選の中心メンバーとして活躍するが、前線の得点力不足が響き本戦出場を逃す。
しかし、欧州予選の同じグループであったイタリアとの対戦で、ポルトガルは敗れたもののイタリアと素晴らしい戦いを見せ、多くの選手がヨーロッパのチームから注目を浴びることとなった。
そして、シーズン終了後、ユベントスらオファーを受けることとなった。
(さらに、ルイ・コスタはフィオレンティーナへ、フェルナンド・コウトはパルマに移籍する。)
94/95シーズンのユベントスは、新しい指揮官にマルチェロ・リッピが就任し、チームの改造に着手したシーズンであった。
リッピの戦術は、前線から中盤の凄まじいプレスからの素早い攻撃であった。
シーズンが始まると、その戦術が的中する。
パウロ・ソウザは守備はもちろんのこと、奪ったボールを効果的に繋ぎ、攻撃の起点となり、加入一年目にしてユベントスの中心選手となった。
そして、ユベントスは9シーズン振りとなるリーグ優勝を果たし、原動力となったパウロ・ソウザはワールドクラスの選手として認識されるようになった。
翌95/96シーズン、ユベントスはチャンピオンリーグとの兼ね合いで取りこぼしが多く、リーグ優勝は逃すが、チャンピオンズリーグでは危なげなく決勝に進出。
決勝ではアヤックスと対戦。
パウロ・ソウザとデシャンが凄まじいプレスでボールを奪いまくり、アヤックスのリズムを完全に奪う。
PK戦の末の優勝であったが、試合は完全にユベントスのものであった。
96年の欧州選手権は、「ポルトガル・ゴールデンエイジ」が世界の舞台でのデビューした大会であった。
フィーゴ、ルイ・コスタ、ジョアン・ピントらと共に素晴らしいサッカーを展開したが、如何せん得点力が低く、決勝トーナメント1回戦で、ポボルスキーのスーパーゴールの前に涙を飲んだ。
ユベントスでの活躍と、ポルトガル代表としての活躍で世界的な名声を得ていたパウロ・ソウザであったが、激しい戦いの中で膝を故障し、
さらにフロントとの確執から、ボルシア・ドルトムントに放出されるという屈辱的な扱いを受けることとなる。
96/97シーズン、膝の故障は癒えてはおらず、リーグ戦ではわずか10試合の出場に留まった。
しかし、チャンピオンズリーグでの勝負所では試合に出場し、決勝進出に貢献。
迎えた決勝戦の相手こそ、古巣ユベントスであった。
当時、欧州最強のチームであったユベントスが圧倒的に有利に見られていたが、試合が始まると故障を感じさせない動きでチームを引っ張る。
そして、試合は誰も予想していなかった「3対1」のスコアで、ボルシア・ドルトムントが勝利し、個人としては2年連続で欧州チャンピオンとなった。
後に「サッカー人生最高の瞬間だった」と語っている。
97/98シーズン途中にはインテルに移籍。
しかし、このシーズンこそまずまずの活躍を見せたが、慢性的な故障により、そのごピッチに立つ時間がどんどん少なくなってしまった。
99/00シーズン途中にパルマに放出され、その後、ギリシャのパナシナイコスに移籍。
しかし、ほとんど試合に出場することはなかった。
00/01シーズン、パナシナイコスはチャンピオンズリーグでアーセナルやシャルケという強豪を抑えグループリーグを首位で通過する。この立役者となったのが、パウロ・ソウザであった。
しかし、これが最後の輝きだった。
シーズン途中に、元々確執のあったフロントに、年俸を理由にチームから放出される。
スペインのエスパニョールに活躍の場を求めるが、シーズン終了後に「怪我との戦いに疲れた」というコメントを残し、ピッチをさった。
代表では51試合に出場している。
96年の欧州選手権では中心メンバーとして活躍したが、その後は怪我の影響で代表を外れることが多くなる。
しかし、00年の欧州選手権では故障で満足なプレーができない状態であったが、メンバー入りを果たし2試合に出場している。
02年のワールドカップでも戦力としては厳しい中、メンバー入りを果たしていることから、チームの精神的支柱としての役割を果たしていたと思われる。
同世代のフィーゴやルイ・コスタ以上の才能の持ち主でしたが、20代半ばで怪我により輝きを失ってしまいました。
もし怪我がなければ、超ビッグネームになっていたでしょう。