【 ジャン=ピエール・パパン (Jean-Pierre Papin)】 177/70 1963-11-5 FW
シーズン | 所属チーム | リーグ | 試合 | ゴール |
84 / 85 | Valenciennes | Fra2 | 33 | 15 |
85 / 86 | クラブ・ブルージュ | Bel1 | 31 | 21 |
86 / 87 | オリンピック・マルセイユ | Fra1 | 33 | 13 |
87 / 88 | オリンピック・マルセイユ | Fra1 | 37 | 19 |
88 / 89 | オリンピック・マルセイユ | Fra1 | 36 | 22 |
89 / 90 | オリンピック・マルセイユ | Fra1 | 36 | 30 |
90 / 91 | オリンピック・マルセイユ | Fra1 | 36 | 23 |
91 / 92 | オリンピック・マルセイユ | Fra1 | 37 | 27 |
92 / 93 | ACミラン | Ita1 | 22 | 13 |
93 / 94 | ACミラン | Ita1 | 18 | 5 |
94 / 95 | バイエルン・ミュンヘン | Dui1 | 7 | 1 |
95 / 96 | バイエルン・ミュンヘン | Dui1 | 20 | 2 |
96 / 97 | ボルドー | Fra1 | 32 | 16 |
97 / 98 | ボルドー | Fra1 | 23 | 6 |
98 / 99 | ギャガン | Fra2 | 10 | 3 |
計 | 411 | 213 |
フランスの誇る超高性能爆撃機。
右足に絶対的な自信を持ち、シュートは非常に正確で強烈。
少々距離があっても、シャープに右足を振り抜きゴールを量産した。
運動能力も高くアクロバティックなプレーも持ち味の一つで、ゴール前の嗅覚も非常に鋭い。
Valenciennesというクラブのユースでサッカーを学び、その後サッカースクールに通い技術を磨いた。
84/85シーズンに、2部リーグのValenciennesでプロデビューする。
15ゴールとストライカーとしてまずまずの結果を残すと、翌85/86シーズンには、ベルギーの名門クラブ・ブルージュにスカウトされ移籍する。
ベルギーでは当初、フランスでの実績がほとんどないストライカーに対して厳しい目線が向けられていたが、ここでゴールを量産する。
シーズン21ゴールを挙げチームの得点王となり、国内カップでは優勝の原動力となる。
そして、その活躍に目を付けたのが、オリンピック・マルセイユのタピ会長であった。
86/87シーズン、フランスに戻ってきたパパンは13ゴールを挙げ、エースストライカーとしての役割を果たすと、
翌87/88シーズンには、19ゴールを挙げ、見事初めての得点王に輝く。
88/89シーズンには、チームにフランチェスコリやカントナ、ソゼーという名手も加わり、マルセイユは抜群の強さを発揮する。
このシーズン、17シーズンぶりのリーグ優勝を果たすと、自らも22ゴールを挙げ得点王に輝く大車輪の活躍を見せた。
その後、チームはワルド、デシャン、アベディ・ペレ、ボリ、アングロマらの優れたタレントを獲得、国内で無敵のチームを作る。
そして、そのチームの象徴的な存在となったのが、パパンであった。
87/88〜91/92、5シーズン連続で得点王に輝き、チーム4連覇に導いた。
その活躍は国内だけで留まらず、チャンピオンズカップでも常連のチームとなり、ヨーロッパの舞台でもその名を知らしめた。
89/90、90/91シーズンのチャンピオンズカップで2シーズン連続で得点王に輝く。
90/91シーズンには、着実に勝ち進み決勝進出を果すが、タレント集団のレッドスターの前に敗れた。
このシーズンの活躍が評価され91年の欧州最優秀選手に選ばれている。
フランスでタイトルというタイトルを総なめにしたパパンは、新しい挑戦を決意し、海外に移籍する。
移籍先は当時ヨーロッパ最強の名を欲しいままにしていたACミランであった。
しかし、ACミランで待ち受けていたのは、今までに経験したことのないレベルのレギュラー争いであった。
加入した92/93シーズン、ファン・バステン、シモーネ、マッサーロ、サビチェビッチ、グーリットという錚々たるメンバーとレギュラーの座を争う。
サビチェビッチは戦術に馴染めず、ファン・バステンが怪我がちということもあり、パパンは22試合に出場し13ゴールを挙げ、リーグ優勝に貢献する。
チャンピオンズカップでも順調に勝ち進み、決勝に進出する。
決勝の相手は、なんと古巣のオリンピック・マルセイユであった。
決勝ではパパンはスタメンで出場できず、後半からの出場となった。
試合は後半のCKからのボリのヘディングから決勝点を挙げ、マルセイユが優勝した。
昨シーズンまで、ヨーロッパNo.1を目指していたチームメイトが歓喜する姿をパパンはどう見たのであろうか。まさに運命のイタズラと言える。
翌93/94シーズン、サビチェビッチがチーム戦術を理解し始め、さらにデサイーとボバンがレギュラーとして出場することが多くなったため、出場機会が激減する。
チームはリーグ優勝を果たすが、わずか5ゴールしか挙げることができず、このシーズン終了後イタリアを去る。
94/95シーズンには、ドイツ随一の名門バイエルン・ミュンヘンに移籍。
しかし故障もあり、シーズンわすか1ゴールで終える。
翌95/96シーズンには、怪我も癒え、万全の体制でシーズンを迎えるが、クリンスマン、ツイックラー、コスタディノフらとのレギュラー争いに敗れる。
UEFAカップではチームは優勝を果すが、決してタイトルに貢献したとは言えない。
海外挑戦を失意のままに終えたパパンは、96/97シーズンからフランスリーグに復帰する。
ボルドーに活躍の場を移し、心機一転シーズンに臨むと、以前の得点感覚を取り戻し、ゴールを量産する。
バ、ミクーというチームメイトにも恵まれ、16ゴールという成績を残した。
しかし翌97/98シーズンには、肉体的に限界にきていたのであろうか、開幕からキレのない動きを見せる。
そして、新しく加入したラスナンデとヴィルトゥールにレギュラーの座を奪われる。
98/99シーズン、出場機会を求め2部のギャガンに移籍したが、監督の構想から外れ、このシーズンの途中に現役を引退した。
代表では54試合に出場し、30ゴールを挙げ、ここでも抜群の決定力を誇っている。
しかし、フランス代表の低迷期と選手としてのピークが重なり、大舞台にはあまり縁が無い。
86年のW杯では、ベルギーでの活躍が認められメンバーに入る。
レギュラーとしての扱いではなかったが、限られた出場時間で結果を残し、2ゴールを挙げている。
90年のW杯はヨーロッパ予選で敗退し、出場を逃している。
92年の欧州選手権ではプラティニに監督の元、カントナと2トップを組み、チームには大きな期待がかかっていた。
パパンは2ゴールを挙げ存在感を見せたが、結果は伴わずグループリーグで敗退した。
94年W杯のヨーロッパ予選でも、カントナと共に攻撃陣をリード、エースとしての役割を果たす。
しかし、予選絶好調であったスウェーデンにグループ1位を奪われ、グループ2位の座を賭け、ブルガリアと対戦する。
そして、あの「パリの悲劇」により、まさかの本大会出場を逃した。
その後、クラブでも低迷し、元々ジャケ監督と折り合いが悪かったということもあり、代表に召集されることはなかった。
全盛期は世界屈指のストライカーとしての評価を得ましたが、プラティニの時代と、ジダンの時代のちょうど狭間の時期にあたるというめぐり合わせの悪い選手でした。
もし、もう少し早く、あるいは遅く生まれていれば、世界制覇の原動力になるほどの活躍を見せていたかもしれません。
マルセイユから移籍する際、ACミランとは違うクラブを選んでいたら、その後のサッカー人生は全く違うものであったかもしれません。