
【 アレクサンダー モストボイ 】 181/76 1968-8-22
MF
| シーズン | 所属 | リーグ | 試合 | ゴール |
| 87 | S・モスクワ | U.S.S.R.1 | 18 | 6 |
| 88 | S・モスクワ | U.S.S.R.1 | 27 | 3 |
| 89 | S・モスクワ | U.S.S.R.1 | 11 | 3 |
| 90 | S・モスクワ | U.S.S.R.1 | 23 | 9 |
| 91 | S・モスクワ | U.S.S.R.1 | 27 | 13 |
| 92 / 94 | ベンフィカ | Por1 | 9 | 0 |
| 93 / 94 | カーン | Fra1 | 15 | 3 |
| 94 / 95 | ストラスブール | Fra1 | 29 | 6 |
| 95 / 96 | ストラスブール | Fra1 | 32 | 9 |
| 96 / 97 | セルタ・ヴィゴ | Spa1 | 31 | 5 |
| 97 / 98 | セルタ・ヴィゴ | Spa1 | 34 | 8 |
| 98 / 99 | セルタ・ヴィゴ | Spa1 | 33 | 6 |
| 99 / 00 | セルタ・ヴィゴ | Spa1 | 26 | 6 |
| 00 / 01 | セルタ・ヴィゴ | Spa1 | 30 | 9 |
| 01 / 02 | セルタ・ヴィゴ | Spa1 | 30 | 10 |
| 02 / 03 | セルタ・ヴィゴ | Spa1 | 27 | 6 |
| 03 / 04 | セルタ・ヴィゴ | Spa1 | 24 | 6 |
| 04 / 05 | アラベス | Spa2 | 1 | 1 |
| 計 | 427 | 109 |
かつてのロシア帝国の首都サンクトペテルブルグが生んだ、ロシアサッカー界の皇帝。
抜群のテクニックと想像力を持ち、ショートパス中心にゲームを組み立てると同時に多くのゴールを演出した。
しかし古いタイプの司令塔とは違い、周りも活かしながら、自らも活きることができ、彼が入った中盤は流れるような展開を見せるのが特徴。
また、ドリブルは他の選手にはマネできないような独特なもので、かなり変則的であり、一見たどたどしいように見えてしまうが、抜群の突破力を誇る。
トップ下だけではなく、サイドハーフやウイング、ストライカーのポジションもこなし決定力は高く、意外にもボランチとしての能力も高い。
天才選手によくいる気まぐれなタイプで、問題を起こすことが多いが、それもまたこの選手の魅力と言える。
ソ連の名門スパルタク・モスクワで87シーズンにデビューすると、シーズン途中でレギュラーに定着。
シャリモフ、ロビノフ、チェレンコフ、ダサエフらとともにいきなりリーグ制覇を果たし、注目を浴びる。
その後、スパルタク・モスクワで91シーズンまでプレーし国内のスター選手となった。
92/93シーズンには、ポルトガルの名門ベンフィカに移籍するが、ルイ・コスタが同じポジションに居たため、活躍することはできなかった。
93/94シーズンには、フランスに活躍の場を移し、翌94/95シーズンに、ストラスブールに移籍すると、その才能を徐々に発揮し出す。
フランスでまずまずの実績を残すと、96/97シーズンにスペインのセルタに移籍する。
セルタそれまで上位に食い込むことなどない、あまりインパクトのないチームであった。
このシーズン、個人的にもチームとしてもあまりいい成績を残す事ができなかったが、1部残留を果たす。
翌97/98シーズン、セルタにはスパルタク・モスクワ時代の盟友カルピンが加入し、その後その存在はピッチ内でもピッチ外でも大きな支えとなる。
セルタは他にもレヴィヴォ、サンチェス、カデテ、マジーニョ、ミチェル・サルガド、イトという決してスターとは呼べないが、確かな実力を持つ選手が多く在籍していた。
そして、これらのタレントのがモストボイを中心にかみ合い、セルタは本領を発揮し始める。
モストボイに率いられた攻撃陣は抜群の破壊力を発揮し、多くの選手が多くのゴールを挙げた。
結果シーズン6位という素晴らしい結果でシーズンを終える。
98/99シーズンにはセルタはペネフ、マケレレという素晴らしいタレントを獲得し、さらに監督にはビクトール・フェルナンデスを招聘した。
フェルナンデス監督は、モストボイを中心に置いた超攻撃的サッカーをかかげシーズンに挑む。
シーズン開幕から、その攻撃的サッカーを機能し、スペインだけでなくヨーロッパ中から注目を浴び、ヨハン・クライフもそのサッカーを絶賛した。
もちろん結果をど返しした超攻撃的サッカーだけに、取りこぼしもありタイトルは獲得できなかった。
その後も、モストボイは躍進セルタの象徴として君臨。
セルタはリーグでも有数のチームに成長し、モストボイもリーグ屈指のタレントとなる。
01/02シーズンには、クロアチアの英雄ボバンが加入するが、司令塔の座を実力で守る。
翌02/03シーズンは開幕からチームは絶好調で、シーズン4位の好成績を収め念願のCLの出場権を得る。
しかし、03/04シーズン、元々それほど選手層の厚いチームではなかったセルタはCLとリーグの過密スケジュールに苦しむ。
モストボイも例外ではなく、多くの試合をこなす中で調子を崩し、チームはシーズン途中で完全に崩壊状態となる。
シーズン19位という最悪の結果となり、セルタはまさかの2部降格となり、これに伴いモストボイはチームを去る。
その後、なかなか移籍先が決まらず、無所属でしばらく過ごした後にアラベスに活躍の場を求めるが、あまり居心地がいいところではなかったようで、すぐにチームを退団。
現在、引退はしていないようだが、どのクラブにも所属はしていない。
トリノで復帰という話もあったが、実現には至っていない。
代表では、ソ連代表として10試合2ゴール、ロシア代表として50試合10ゴールの成績を残している。
多くの主力選手が出場を辞退した94年のW杯に参加。
1試合のみであるが出場している。
その後、頭角を現し主力となり、ロシア代表の中核を担うようになる。
96年の欧州選手権ではロシア代表はダークホースに挙げられていたが、グループリーグでイタリア、ドイツ、チェコと同組になり、魔のグループの餌食となった。
準優勝したチェコとの対戦ではモストボイのゴールで引き分けとなっている。
その後、ロシア代表は低迷を続け大舞台から姿を消す。
02年のW杯欧州予選ではトップ下ではなく、センターハーフとしてプレーし、見事にチームをまとめ上げ、ロシア代表を久々の大舞台に導く。
しかし、大会前に怪我をしてしまい、司令塔を失ったロシアはグループリーグで日本にも負け大会を去った。
ロシア代表はこの大会でもダークホースとして挙げられていたが、モストボイの穴は大きすぎたようである。
04年の欧州選手権にも出場。
グループリーグ初戦のスペイン戦に敗れた後に、監督批判したということで、代表から追放されてしまった。
もちろん、この大会のロシア代表もモストボイを中心としていたため、司令塔を失ったチームは成す術なく大会を去った。
しかし、後にモストボイは監督批判はしていないということが判明。
発言は「監督の練習量が多いので、ベテランの自分はトップコンディションで試合になかなか挑む事は難しい」という趣旨の発言だったようで、
特に監督を嫌っていたということもなかったようである。
その発言がマスコミにより歪曲されたというのが真実のようだ。
昨今、多くの天才司令塔が不遇の選手人生を送っていますが、長岐に渡りトップレベルで活躍したという近年では珍しい存在です。
もちろん、モストボイの才能が素晴らしいというのもありますが、セルタという中堅クラブでプレーを続けたことが成功に繋がった理由だと思います。
もし、もしビッグクラブに移籍していれば、ハジ、プロシネツキ、デ・ラ・ペーニャ、リケルメのような流浪のサッカー人生を送ることとなっていたでしょう。
かなり短気で審判には常に文句を言っていましたし、1人でいるときもブツブツ言っていました。
こういうタイプの選手にしては珍しく、ゴール前のこぼれ玉に詰めるのが巧い選手でした。