【 パトリック・エムボバPatrick MBOMA 185/85 1970-11-15  FW



シーズン 所属チーム 試合 ゴール
90 / 91 スタッド・ドゥレスト Fra2 0 0
パリSG Fra1 0 0
91 / 92 パリSG Fra1 0 0
92 / 93 シャトールー Fra2 19 5
93 / 94 シャトールー Fra3 29 17
94 / 95 パリSG Fra1 6 1
95 / 96 パリSG Fra1 8 1
96 / 97 メス Fra1 17 4
97 / 98 パリSG Fra1 8 1
97 ガンバ大阪 Jap1 28 25
98 ガンバ大阪 Jap1 8 7
98 / 99 カリアリ Ita1 13 7
99 / 00 カリアリ Ita1 27 8
00 / 01 パルマ Ita1 20 5
01 / 02 パルマ Ita1 4 0
サンザーランド Eng1 9 1
02 / 03 Al-Ittihad Tripoli Lib1 28 12
03 東京ヴェルディ Jap1 23 13
04 東京ヴェルディ Jap1 12 4
05 ヴィッセル神戸 Jap1 6 2
06 ヴィッセル神戸 Jap1 4 0
  計 269 113

黒人選手特有の圧倒的な身体能力を生かした躍動感あふれるプレーで活躍した、90年代後半から00年前半のアフリカを代表する選手の1人。
Jリーグ、代表では素晴らしい成績を残しているが、欧州のクラブでは実績を残すことはできなかった。

カメルーンで生まれるが、2歳の時に両親と共にフランスに移住。

パリのスタッド・ドゥレストというクラブでプロ契約を結び、その潜在能力を見抜いた名門パリSGに間もなく移籍する。
しかし活躍の場を与えられぬまま、シャトールーというクラブにレンタル。

93/94シーズンには3部ではあるが17ゴールを記録し、翌94/95シーズンにはパリSGに復帰。
しかし、ジノラやウェアというヨーロッパでも屈指のタレントを抱える攻撃陣に付け入る隙はなく、再びレンタルでカンヌに活躍の場を移す。

ここでまずまずの活躍を見せ、97/98シーズンに再びパリSGに復帰すると、プレシーズンマッチで素晴らしい動きを見せたが、
監督はマルコ・シモーネと新進気鋭のフランス代表ストライカー、フローリアン・モーリスをレギュラーとして扱い、出場機会はほとんどなかった。

その後、Jリーグのガンバ大阪からのオファーが舞い込み、日本へ活躍の場を移し大ブレーク。
圧倒的な身体能力としなやか身のこなしに、対応できるDFは日本には存在せず。
数々のスーパーゴールを生み、JリーグNo.1のスター選手となり、97シーズンの得点王に輝いている。

日本での活躍と同時に、カメルーン代表でも不動の地位を築き、98W杯のアフリカ予選でもゴールを量産し、予選突破の原動力となった。
98W杯ではチーム事情から、不慣れなボランチのポジションでプレーしている。
最終戦のみFWでプレーし、その試合で1ゴールを記録している。

Jリーグと代表での活躍が注目され、98/99シーズンの途中からイタリアのカリアリに移籍。
シーズンの半分だけのプレーであったが、7ゴールを記録し初めてヨーロッパで実績らしい実績を残した。

しかし、翌シーズンは身体能力に頼ったプレーがセリエAに順応せず低迷。
00年のシドニーオリンピックにはオーバーエイジ枠で出場し、クラブでの低迷からは信じられないような、素晴らしいパフォーマンスを見せ、
カメルーンの金メダルの立役者となり、この年のアフリカ最優秀選手にも選ばれている。


00/01シーズンには、パルマに移籍するが、同じポジションにユーゴスラビアのストライカー、サボ・ミロシェヴィッチが加入したため、あまり見せ場はなかった。
その後、イングランドでもプレーしたが、相変わらずクラブレベルでは実績を残すことはできなかった。

02年のW杯では、エトーと2トップを組むが、怪我の影響で満足のいくプレーを見せることはできなかった。
それでもグループリーグ初戦で1ゴールを挙げている。

リビアのリーグを経て再びJリーグに復帰するが、その頃にはかつてのような躍動感にあふれるプレーは影を潜めたが、強烈なシュートで多くのゴールを奪い健在をアピールした。

カメルーン代表として最後となったアフリカネイションズカップでは、4ゴールを挙げ得点王に輝き、有終の美を飾った。


代表では通算56試合に出場し、33ゴールを記録している。

各カテゴリーの代表で多くのアフリカの選手と対戦してきた中田英寿でさえ、Jリーグ時代に「あんなやつがサッカーをやっていることが反則だよ」というコメントを残している。





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