
【 ハンス クランクル 】 182/80 1953-2-14
FW
| シーズン | 所属 | リーグ | 試合 | ゴール |
| 70 / 71 | ラピト・ウィーン | Aus1 | 4 | 0 |
| 71 / 72 | Wiener Athletic Club | Aus2 | 26 | 27 |
| 72 / 73 | ラピト・ウィーン | Aus1 | 33 | 14 |
| 73 / 74 | ラピト・ウィーン | Aus1 | 32 | 36 |
| 74 / 75 | ラピト・ウィーン | Aus1 | 33 | 17 |
| 75 / 76 | ラピト・ウィーン | Aus1 | 35 | 20 |
| 76 / 77 | ラピト・ウィーン | Aus1 | 35 | 32 |
| 77 / 78 | ラピト・ウィーン | Aus1 | 36 | 41 |
| 78 / 79 | FCバルセロナ | Spa1 | 30 | 29 |
| 79 / 80 | FCバルセロナ | Spa1 | 9 | 2 |
| ファースト・ウィーン | Aus1 | 17 | 13 | |
| 80 / 81 | FCバルセロナ | Spa1 | 7 | 3 |
| ラピト・ウィーン | Aus1 | 18 | 16 | |
| 81 / 82 | ラピト・ウィーン | Aus1 | 32 | 19 |
| 82 / 83 | ラピト・ウィーン | Aus1 | 26 | 23 |
| 83 / 84 | ラピト・ウィーン | Aus1 | 27 | 17 |
| 84 / 85 | ラピト・ウィーン | Aus1 | 25 | 14 |
| 85 / 86 | ラピト・ウィーン | Aus1 | 17 | 18 |
| 86 / 87 | Wien S.C | Aus1 | 27 | 20 |
| 87 / 88 | Wien S.C | Aus1 | 33 | 20 |
| 88 / 89 | Kremser SC | Aus1 | 5 | 1 |
| 89 / 90 | Salzburg SV | Aus1 | 14 | 10 |
| 計 | 521 | 392 |
オーストリアサッカー史上最高の選手とも言われる天才ストライカー。
左足のシュートは強烈かつ正確で絶対の自信を持っていた。
さらに、天性の得点感覚を持ち合わせ、ゴール前での勝負強さは群を抜いていた。
70/71シーズン、名門ラピド・ウイーンでデビューするがゴールを挙げることは出来ず、翌シーズンには2部のチームでプレーすることになる。
そして、2部のWiener Athletic Clubというチームでゴール量産のサッカー人生が始まる。
26試合で27ゴールという抜群の成績を残し、すぐにラピド・ウイーンに呼び戻されることになる。
72/73シーズン、クランクルはトップリーグでもその能力を存分に発揮し、14ゴールを挙げる。
翌73/74シーズンには32試合で36ゴールという素晴らしい活躍を見せ、初めての得点王となった。
その後もゴールを量産し続け、77/78シーズンには41ゴールを挙げ、ヨーロッパ全体のゴールデンブーツにも輝いている。
とは言え、クランクルの実力はヨーロッパではまだ認められてはいなかった。
オーストリアリーグは隣国の西ドイツやイタリア、イングランドのリーグと比べると、レベルが明らかに低く、その評価はある意味正しかったと言える。
クランクルは78年のW杯の欧州予選でもゴールを量産し、プロハスカと共に20年ぶりのW杯出場の原動力となった。
W杯の1次リーグではスペイン、スウェーデンをクランクルのゴールで下し2次リーグに進出する。
2次リーグではイタリアとオランダに破れリーグ最下位となるが、オーストリアのハイライトはライバルの西ドイツとの対戦であった。
オーストリアはナチス時代にドイツに併合された屈辱の歴史があり、この1戦はただのサッカーの試合ではなく、オーストリアの国を挙げた復讐戦であった。
この試合は両国の意地がぶつかり合う白熱した試合となり、点の取り合いとなる。
オーストリアはクランクルの1ゴールを含め2点、西ドイツも2点を挙げ試合は白熱する。
向かえた試合終了寸前に、クランクルはゴール前で見事な胸のトラップでボールを受けると、そのままボレーシュートを放ちゴールネットを揺らした。
このゴールでオーストラリアは西ドイツを破り、2次リーグ敗退にも関わらず、オーストリア全土はまるで優勝したかのような盛り上がりになったと言われている。
クランクルはこのW杯で4ゴールを挙げる大活躍を見せ、オーストリア国内のスターから、一気に世界屈指のストライカーの評価を得るようになった。
その活躍に注目した多くのチームからオファーが舞い込むことになる。
そして、その争奪戦を制したのはFCバルセロナであった。
バルセロナは退団したクライフの穴を埋めために、クランクルを獲得したのである。
しかし、サポーター達はW杯で大活躍を見せたが、本当にバルセロナに相応しい選手なのか疑っていた。
78/79シーズンが開幕すると、クランクルはその実力でサポーターを納得させる。
開幕から圧倒的な得点力でゴールを量産。
リーグ優勝はレアル・マドリードの前に逃すも、29ゴールを挙げ得点王に輝き、改めて自らの実力を世界に示した。
さらにカップウイナーズ・カップでもゴールを量産し、FCバルセロナを決勝に導く。
決勝でもゴールを挙げ、チームに初のタイトルをもたらした。
その後もバルセロナでの活躍が期待されたのだが、交通事故で重傷を負い戦線を離脱する。
復帰後も調子は上がらず、オーストリアのチームで調整を行った。
しかし、80/81シーズンもかつてのパフォーマンスを見せることができなかった。
さらに、フロントとの確執もありシーズン途中でラピド・ウイーンへ移籍する。
古巣ラピド・ウイーンに復帰したクランクルは、バルセロナでの鬱憤を晴らすかのようにゴールを量産する。
81/82シーズンには、自身初めてとなるリーグ優勝を果たす。
翌82/83シーズンにも、リーグ優勝を果たし連覇を達成すると共に、23ゴールを挙げ、オーストリアリーグでは4度目となる得点王に輝いた。
84/85シーズンには、クラニチャールとの2トップでカップウイナーズ・カップで勝ち進む。
決勝で惜しくもイングランドのエヴァートンに敗れるが、オーストリアのチームとして初のヨーロッパ3大カップの決勝進出という快挙を遂げた。
86/87シーズンにはラピド・ウイーンを離れるが、その後も圧倒的な決定力で活躍する。
しかし年齢には勝てず、88/89シーズンにはわずか5試合の出場に留まった。
89/90シーズンには、出場機会を求めて新しいクラブに移籍。
そこで、14試合しか出場できなかったが10ゴールを挙げる相変わらずの得点力を発揮するが、このシーズンを最後にユニフォームを脱いだ。
代表としては69試合に出場し、34ゴールを挙げている。