【 ポール インス 】 179/77 1967-10-21  MF



シーズン 所属 リーグ 試合 ゴール
86 / 87 ウエスト・ハム Eng1 10 1
87 / 88 ウエスト・ハム Eng1 28 3
88 / 89 ウエスト・ハム Eng1 33 3
89 / 90 ウエスト・ハム Eng2 1 0
マンチェスター・U Eng1 26 0
90 / 91 マンチェスター・U Eng1 31 3
91 / 92 マンチェスター・U Eng1 33 3
92 / 93 マンチェスター・U Eng1 41 6
93 / 94 マンチェスター・U Eng1 39 8
94 / 95 マンチェスター・U Eng1 36 5
95 / 96 インテル Ita1 30 3
96 / 97 インテル Ita1 24 6
97 / 98 リヴァプール Eng1 31 8
98 / 99 リヴァプール Eng1 34 6
99 / 00 ミドルスブラ Eng1 32 3
00 / 01 ミドルスブラ Eng1 30 2
01 / 02 ミドルスブラ Eng1 31 2
02 / 03 ウォルバーハンプトン Eng2 37 2
03 / 04 ウォルバーハンプトン Eng1 32 2
04 / 05 ウォルバーハンプトン Eng2 28 3
05 / 06 ウォルバーハンプトン Eng2 18 3
06 / 07 Swindon Town Eng4 3 0
608 72

90年代のイングランドを代表するプレイヤー。
凄まじい運動量と、抜群の身体能力でボールを奪う姿は、まさしく「闘犬」と言える。
プレースタイルだけではなく性格も「闘犬」、敵や審判に食って掛かりカードをもらうことも多かった。
決してクリエイティブなボランチではなかったが、高い得点能力も兼ね備え、ミドルレンジからの強烈インサイドキックでのシュートで多くのゴールを挙げた。
また、驚異的な瞬発力の持ち主でもあり、マンチェスター・U時代のオーバーヘッドキックは今でも語り草となっている。


86/87シーズン、ウエスト・ハムでトップデビューすると87/88シーズンには、その強烈な個性で若くしてチームの中心選手となる。
この頃から、すでに強烈なプレースタイルは確立されており、激しいタックルと審判への激しい抗議などで、イングランドではかなり有名な存在となる。

88/89シーズン、ウエスト・ハムの成績は振るわず2部に降格してしまう。
そこに目を付けたのが、マンチェスター・Uのアレックス・ファーガソン監督であった。
当時のマンチェスター・Uはまだ常勝チームではなく、発展途上のチームであった。
マンチェスター・Uでも強烈なキャラクターを発揮し、チームメイトにも多くの激を飛ばし、プレーでチームを引っ張った。
そのプレーに引っ張られるようにして、マンチェスター・Uは徐々にチーム力を付けていく。

90/91シーズンには、カップウイナーズ・カップでFCバルセロナを下し優勝。
92/93シーズンには、ギグズ、カントナ、ヒューズ、カンチェルスキスらの攻撃陣と、インス、ブルース、シュマイケルの守備陣ががっちり咬み合い、念願のリーグ優勝を果たした。
93/94シーズンにもリーグ優勝を果たし連覇を達成、ここからマンチェスター・Uの黄金時代が始まる。

そして、これらの活躍が評価され、95/96シーズンにはイタリアのインテルに引き抜かれることになる。
セリエAは多くのイングランド選手が苦戦を強いられたリーグである。
親友であるポール・ガスコインも、セリエAで十分に能力を発揮できたとは言い難い。

インスはこのシーズン多くの選手が入れ替わり、生まれ変わったチームで縦横無尽の活躍を見せる。
しかし、チームはやはり完成度が低かったため、序盤になかなか勝ち星を挙げる事ができず、上位に食い込むことはできなかった。

96/97シーズンは、ボスマン判決の影響でインテルは資金力にものを言わせ、多くの外国人選手を獲得する。
同じポジションにはシメオネ、ゼ・エリアス、スフォルツァ、ヴィンターが加入したが、それでも中盤の中心はインスであった。
インテルは最終的にパルマに競り負けCLの出場権は逃すも、3位という好成績を残し長年続いた低迷から脱した。

その後もインテルの中心選手として活躍が期待されたが、シーズン中に一部のサポーターから人種差別的な発言を受けたことによりインテル退団を決意。
再びイングランドに戻り、リヴァプールに活躍の場を移した。

リヴァプールでも絶対的存在として君臨し、闘争心剥き出しで激しいプレーでチームを活性化させた。
しかし、その激しい性格はリヴァプールではなかなか受け入れられなかった。
チームのスター、オーウェンや他の選手から煙たがられるようになり、98/99シーズン終了後にはウリエにより戦力外の扱いを受け追い出されるように退団。

その頃には、かなり発言力の大きな選手となっており、多くのチームは彼をやっかいな人物として見るようになっていた。
そのため移籍先はなかなか決まらなかったが、ミドルスブラの監督と勤めていたマンチェスター・U時代のチームメイトのブライアン・ロブソンにより雇われることとなった。
ミドルスブラでは3シーズン主力として活躍。
しかし、年齢のためかかつてのような驚異的なプレーは徐々に消えていった。
それでも、ピッチ上での存在感は圧倒的なものがあったが、ブライアン・ロブソンが監督の座を退くと共にチームを去った。

その後、現役にこだわり2部に所属するウォルバーハンプトンに移籍。
そこではベテランでありながら、シーズンのほとんどの試合に出場し1部昇格に大きく貢献した。

03/04シーズン、プレミア復帰を果たしたが、チームはインスの孤軍奮闘も実らず再び降格。
現役を続行しウォルバーハンプトンでその後2シーズンプレーしたが、プレミアに復帰することはできなかった。

06/07シーズン、Swindon Townというチームでのプレーを最後に現役を引退した。


イングランド代表としては52試合で2ゴールの成績を残している。
代表ではゴールを狙うプレーは比較的少なかったが、その激しいプレーは代表でも抜群の存在感を発揮し闘将として君臨した。

デビューは92年の欧州選手権後、それ以前から代表レベルのプレイヤーとして認識されていたが、
激しすぎるプレーや、審判へのクレームの多さなどで監督から避けられていた。

デビューしてからすぐに主力として活躍。
93年には黒人として初めて、イングランド代表の主将を務めた。
94年のW杯はチームの不調が続き、まさかの欧州予選敗退となった。

98年のW杯予選では、鬼神の如く凄まじいプレーを見せ、チームを牽引。
ホドル監督も絶大な信頼を寄せており、インスがどんなに疲れ果てていても、彼がピッチから交代を命じられることはなかった。
最終戦では頭部に裂傷を負い、頭に包帯をグルグル巻いてピッチに戻る。
しかし、それでも流血は止まらなかったようで、包帯もユニフォームを血まみれになりながら最後までプレーし、念願のW杯出場を決めた。

W杯でも、中盤を駆け巡り決勝トーナメント進出に大きく貢献。
ベスト8を掛けたアルゼンチン戦では、退場になったベッカムの穴を埋めるべく、120分間鬼気迫るプレーを見せる。
PK戦では自らもPKを外しアルゼンチンに敗れるが、そのプレーは大きく評価された。


94/95シーズンのマンチェスター・Uって、インスの他にキーン、カンチェルスキス、カントナという強烈な性格の選手が揃っていたのに機能していたんですね。
ファーガソン恐るべし。