【 フリオ・クルス (Jurio Curz)】 190/84 1974-10-10 FW
シーズン | 所属チーム | 国 | 試合 | ゴール |
93 / 94 | バンフィールド | Arg1 | 5 | 0 |
94 / 95 | バンフィールド | Arg1 | 26 | 6 |
95 / 96 | バンフィールド | Arg1 | 33 | 10 |
96 / 97 | リーベル・プレート | Arg1 | 29 | 17 |
97 / 98 | フェイエノールト | Net1 | 27 | 14 |
98 / 99 | フェイエノールト | Net1 | 29 | 15 |
99 / 00 | フェイエノールト | Net1 | 30 | 15 |
00 / 01 | ボローニャ | Ita1 | 27 | 7 |
01 / 02 | ボローニャ | Ita1 | 33 | 10 |
02 / 03 | ボローニャ | Ita1 | 28 | 10 |
03 / 04 | インテル | Ita1 | 21 | 7 |
04 / 05 | インテル | Ita1 | 18 | 5 |
05 / 06 | インテル | Ita1 | 31 | 15 |
06 / 07 | インテル | Ita1 | 15 | 7 |
07 / 08 | インテル | Ita1 | 28 | 13 |
08 / 09 | インテル | Ita1 | 17 | 2 |
09 / 10 | ラツィオ | Ita1 | 25 | 8 |
計 | 422 | 161 |
長身を生かしたポストプレーを得意としながらも、技術と高い決定力を持つ、優秀なセンターフォワード。
同時期に活躍した、同胞のバティストゥータやクレスポのようなスター性は無く、スタメンでもサブとしても不平をもらさず、与えられた仕事を着実にこなす職人肌の選手であった。
そのため、選手、監督からの信頼は絶大であった。
96/97シーズンに、クレスポの後釜として名門リーベル・プレートに移籍し、17ゴールを挙げ、注目を浴びることとなる。
97/98シーズンからは、ヨーロッパに渡る。
フェイエノールトでは3シーズンで44ゴールを挙げ、抜群のポストワークで低迷していたチームの救世主となり、
00/01シーズンからは、ケネット・アンデルソンの後釜として、イタリアのボローニャに活躍の場を移す。
シニョーリ、ロカテッリと共に活躍。その安定したプレーは高く評価され、03/04シーズンには名門インテルの一員となる。
インテルでは当時世界最高峰のストライカーであったクリスチャン・ヴィエリ、ブラジル代表のアドリアーノ、
そして当時飛ぶ鳥を落とす勢いであったマルティンスに次ぐ4番手のFWであったが、与えられた仕事を着実にこなし、次第に監督からの信頼を得るようになる。
05/06シーズンには、エースであったアドリアーノの不調により、レギュラーに定着。
その穴を補ってあまりある程の活躍を見せ、セリエAでの自己最多となる15ゴールを挙げ、インテルを17シーズン振りとなるリーグ優勝に導いた。
その後も、クレスポ、イブラヒモビッチ等の優秀なタレントが続々と加入する中でも、派手さはないものの着実な仕事ぶりで、サポーターからも愛され、キャプテンとして多くの試合に出場している。
代表としては22試合に出場し、4ゴールを記録している。
97年に代表デビューしたが、バティストゥータとクレスポという当時のサッカー界を代表する2人のストライカーからレギュラーを奪うことはできず、バックアッパーに徹した感がある。
98年、02年のW杯は落選し、06年のW杯でもメンバーに選ばれたがあくまでもクレスポのバックアッパーとしての扱いであった。
同年代のクレスポとは何かと因縁があり、リーヴェルにはクレスポの後釜として迎えられ、オリンピック代表、フル代表では常にクレスポの控えとして扱われた。
リーヴェルから当時ヨーロッパでも一流のクラブであったパルマに迎えられ、その後、ラツィオにてスーパースターになったクレスポに対して、
フェイエノールト、ボローニャという地味なクラブで着実に実績を残したクルス。
まさに光と影とも言える道を歩んだ2人だが、インテルではその立場は逆転した。