
【 ジェラルド ファネンブルグ 】 172/70 1964-3-5
MF/DF
| シーズン | 所属チーム | リーグ | 試合 | ゴール |
| 80 / 81 | アヤックス | Net1 | 11 | 3 |
| 81 / 82 | アヤックス | Net1 | 32 | 13 |
| 82 / 83 | アヤックス | Net1 | 33 | 17 |
| 83 / 84 | アヤックス | Net1 | 34 | 7 |
| 84 / 85 | アヤックス | Net1 | 29 | 12 |
| 85 / 86 | アヤックス | Net1 | 34 | 12 |
| 86 / 87 | PSV | Net1 | 34 | 9 |
| 87 / 88 | PSV | Net1 | 34 | 1 |
| 88 / 89 | PSV | Net1 | 34 | 10 |
| 89 / 90 | PSV | Net1 | 21 | 6 |
| 90 / 91 | PSV | Net1 | 29 | 11 |
| 91 / 92 | PSV | Net1 | 19 | 7 |
| 92 / 93 | PSV | Net1 | 28 | 4 |
| 93 | ジュビロ磐田 | Jap2 | - | - |
| 94 | ジュビロ磐田 | Jap1 | 43 | 8 |
| 95 | ジュビロ磐田 | Jap1 | 21 | 1 |
| 96 | ジュビロ磐田 | Jap1 | 22 | 5 |
| 96 / 97 | ユトレヒト | Net1 | 9 | 2 |
| 97 / 98 | カンヌ | Fra1 | 26 | 6 |
| 98 / 99 | 1860ミュンヘン | Dui1 | 27 | 2 |
| 99 / 00 | 1860ミュンヘン | Dui1 | 15 | 0 |
小柄で身体能力は高くないが、高度なテクニックと戦術眼を持つ、オランダでは少ないタイプのゲームメーカー。
ブラジル人選手のような素晴らしいテクニックで相手選手をいなし多くのゴールを挙げたが、守備面での貢献度も高く、代表ではファン・バステンらのスーパースターの黒子に徹し活躍した。
クラブでも代表でも非常に多くのタイトルを獲得した選手である。
アヤックスユースで育て上げられ、80/81シーズンにはわずか16歳でトップデビューする。
81/82シーズンにはレギュラーに定着、13ゴールを挙げリーグ優勝に貢献すると、82/83シーズンには17ゴールを挙げ連覇の原動力となり10代でトッププレーヤーとなる。
その後アヤックスでは85/86シーズンまでプレーし、ファン・バステン、クーマン、ライカールトらと共に通算3度のリーグ優勝を遂げている。
86/87シーズンには、ライバルのPSVにクーマンと共に移籍。
このシーズン、グーリット、クーマンと共に変幻自在の攻撃サッカーを展開し、シーズン97ゴールという驚異的な破壊力でリーグ優勝をする。
翌87/88シーズン、グーリットはイタリアに去ったが、PSVはキフト、ヒルハウスを獲得し、ファネンブルグはその前線を自由に操った。
総得点105ゴールの圧倒的な強さでリーグ優勝すると、チャンピオンズカップでもその強さを発揮、ヨーロッパの強豪と次々と倒し決勝の舞台に立つ。
決勝ではポルトガルのベンフィカと対戦。
試合はPK戦にまでもつれた末、PSVは初のヨーロッパチャンピオンとなりビッグイヤーを掲げた。
その後もPSVの中盤に君臨し、ロマーリオらと共に黄金時代と築き、92/93シーズンまでの7シーズンの在籍で、
リーグ優勝5回、チャンピオンズカップ優勝、トヨタカップ優勝とあらゆるタイトルをチームにもたらした。
もちろん、このような選手をヨーロッパの各クラブが放っておくわけがなく、数々のクラブからのオファーが舞い込んだ。
しかし、あまり本人は乗り気ではなかったようで実現しなかった。
唯一ASローマとは交渉が進み、本人も移籍に合意していたが、契約段階でトラブルが発生し白紙となっている。
PSVはその後も、ファネンブルグをチームの大黒柱と考えていたが、突然日本の2部リーグへの移籍を決意する。
知り合いであった、ハンス・オフト氏の勧めで、日本への移籍になったということであるが、まだ29歳のトッププレイヤーであったため、日本の関係者だけでなく、オランダの関係者も驚いたという。
2部所属であったジュビロ磐田に加入すると、すぐにチームに馴染み1部昇格に大きく貢献。
その後、Jリーグで抜群の存在感を示しジュビロ磐田を牽引する。
しかし、95シーズンに膝十字靭帯の損傷という大怪我を負い、怪我が癒えてからも出場機会は限られており、96シーズンを最後に日本を去った。
96/97シーズンの途中から、オランダのユトレヒトに移籍するが、あまり活躍はできず、翌97/98シーズンにはフランスのカンヌに移籍。
フランスではかつての輝きを取り戻し、素晴らしいパフォーマンスを披露。
その活躍に目を付けた、ドイツの1860ミュンヘンが98/99シーズンに獲得する。
当初、MFでプレーをしていたが、素晴らしい戦術眼と守備意識の高さから、リベロを任せられることになる。
リベロにコンバートされたファネンブルグは素晴らしいパフォーマンスを披露し、ドイツで非常に高い評価を得ることとなった。
しかし、翌シーズンは故障のためあまり試合にでることができず、このシーズンを最後に現役生活に別れを告げた。
オランダ代表としては42試合で1ゴールの成績を残している。
クラブでは多くのゴールを挙げているが、代表では1ゴールしか挙げていない。
代表では積極的にゴールを狙うという役割ではなく、チームのバランスを執るという重要な役割を担っていた。
同時代に活躍したスーパースターを陰で支えていたのが、ファネンブルグであった。
18歳で代表デビューを果たすが、オランダが低迷期にあったため、なかなか大舞台に立つことはできなかった。
88年の欧州選手権には、BIG4と共に出場。
レギュラーとして活躍し、オランダ初のビッグタイトルに大きく貢献した。
90年のW杯にも出場したが、レギュラー争いに敗れたため、わずか1試合の出場に留まっている。
80年代のオランダを代表するプレイヤーの1人です。
リベロとして初めてプレーしたのが、ジュビロ磐田時代でした。
本人はかなり嫌だったそうですが、その経験が生き1860ミュンヘンでは最高の評価を得ることとなりました。
アヤックスからPSVに移籍した理由は、クライフとのケンカが原因だそうです。