
【 アントン ドロブニャック 】 185/80 1968-9-21
FW
| シーズン | 所属チーム | リーグ | 試合 | ゴール |
| 86 / 87 | Jedinstvo Bijelo Polje | Mon1 | 5 | 0 |
| 87 / 88 | Jedinstvo Bijelo Polje | Mon1 | 24 | 7 |
| 88 / 89 | Jedinstvo Bijelo Polje | Mon1 | 14 | 1 |
| 89 / 90 | Jedinstvo Bijelo Polje | Mon1 | 27 | 19 |
| 90 / 91 | Buducnost Podgorica | Yug1 | 31 | 13 |
| 91 / 92 | Buducnost Podgorica | Yug1 | 17 | 9 |
| 92 / 93 | レッドスター | Yug1 | 34 | 22 |
| 93 / 94 | レッドスター | Yug1 | 29 | 6 |
| 94 / 95 | バスティア | Fra1 | 31 | 12 |
| 95 / 96 | バスティア | Fra1 | 36 | 20 |
| 96 / 97 | バスティア | Fra1 | 33 | 18 |
| 97 / 98 | レンヌ | Fra1 | 32 | 14 |
| 98 | ガンバ大阪 | Jap1 | 18 | 8 |
| 99 | ガンバ大阪 | Jap1 | 13 | 4 |
| 99 / 00 | ソショー | Fra2 | 18 | 3 |
| 00 / 01 | ソショー | Fra2 | 14 | 1 |
| 01 / 02 | ソショー | Fra1 | 0 | 0 |
| Martigues | Fra2 | 26 | 9 | |
| 計 | 402 | 166 |
大柄であるが旧ユーゴスラビアの選手らしい柔軟なテクニックを持つ、左利きの点取屋。
左足の振りは鋭く、放たれたシュートは豪快にゴールネットに突き刺さった。
ボールをもらってから、シュートへもっていく一連の動きが、同じセルビア人のストライカーのサボ・ミロシェビッチに似ている。
ユーゴスラビア内のモンテネグロのリーグでプロとしての第1歩を踏み出す。
そこで確かな技術と得点感覚を養い、着実に結果を残していく。
89/90シーズンには19ゴールという成績を残すと、ユーゴスラビアのトップリーグのBuducnost
Podgoricaに引き抜かれる。
ユーゴスラビアリーグでもその得点感覚をいかんなく披露する。
移籍した最初のシーズンに13ゴールを挙げる成績を残し、ユーゴスラビアでも名の通った存在となっていく。
翌91/92シーズンは、怪我のため出場機会は少なかったが、その才能が認められ名門レッドスターに移籍することになる。
名門レッドスターは、サビチェビッチ、ユーゴビッチ、ミハイロビッチという黄金期を支えてきたメンバーが、イタリアのクラブに移籍し変換期を迎えてきた。
チームはエースストライカーにドロブニャック、ゲームメーカーにはマスロバルを向かえ、92/93シーズンに挑んだ。
チームはこの2人に加え、ペトコビッチやイヴァッチらの攻撃陣でサビチェビッチらの抜けた穴を埋めた。
ドロブニャックはゴールを量産、22ゴールを挙げ見事に初の得点王に輝いた。
しかし、リーグ優勝はミヤトビッチ、ミロシェビッチ、ヨカノビッチ擁するパルチザンの前に逃した。
翌93/94シーズンも、パルチザンの前に優勝を逃し、さらにドロブニャックは不調に陥り、わずか6ゴールでシーズンを終えた。
2シーズン連続で優勝を逃したレッドスターは、チーム改革を図りコバチェビッチ、クルプニコビッチというタレントを前線に補強。
そのため、不調のシーズンを送ったドロブニャックは放出されることになる。
94/95シーズンからはバスティアでプレーする。
フランスの地に活躍の場を移したドロブニャックは、ユーゴスラビア時代を凌ぐ素晴らしいパフォーマンスを披露する。
チームには他に優れたタレントが居たわけでもなかったが、毎シーズンのようにゴールを量産。
96/97シーズンまでの3シーズンで50ゴールを挙げ、フランスリーグ屈指のFWとなり、欧州でもその名の知られる存在となった。
96/97シーズン終了後には、その活躍が注目され、イタリアのインテルへの移籍が噂になったが、この移籍は実現せず、レンヌへ移籍することとなった。
97/98シーズン、レンヌは固い守りと、スミチェル、ドロブニャック、ヴァレル擁する攻撃陣を中心にして、
ノーマークであったにも関わらず開幕から見事なサッカーを展開。
パリSG、モナコ、オゼールらと激しい優勝争いを繰り広げた末、見事にリーグ優勝を果たす。
ドロブニャックは14ゴールを挙げる活躍を見せ、優勝に大きく貢献した。
ヨーロッパでのさらなる活躍が期待されたが、ドロブニャックは意外な決断を下す。
フランスリーグで確固たる地位を築いていたにも関わらず、フランスを離れ日本でプレーすることを選択したのである。
98シーズンに、ガンバ大阪に加入。
ヨーロッパでの実績からパトリック・エムボマの後釜としてかなり期待されていた。
しかし、このシーズン18試合で8ゴールという凡庸な成績に終わる。
さらに翌99シーズンは、13試合で4ゴールしか挙げることはできなかった。
結局、日本のサッカーに全く馴染むことはできずに、シーズン途中にチームを退団。
再びフランスに渡る。
フランスに戻ってからは、2部に所属したソショーでプレーするが、かつての輝きはなく結果を残すことはできなかった。
00/01シーズン、2部のMartiguesというチームでプレーし、現役を引退した。
代表では7試合に出場し、4ゴールの成績を残している。
クラブでの成績を考えると、かなり物足りない成績である。
これはユーゴスラビアが紛争による制裁で国際舞台への出場ができなかったためである。
さらに国際舞台復帰後も、ミヤトビッチやサビチェビッチというワールドクラスの選手達がいたため、なかなか代表には定着できなかった。
98年のW杯にはメンバー入りすると見られていたが、当時、超新星と言われていたオグニエノビッチがメンバー入りしたため、大舞台に立つことはできなかった。
ガンバに加入したと聞いたときは、エムボマ以上の活躍は間違いないと思っていましたが、Jリーグを甘く見ていたのか、全然いいとこがありませんでした。
いいストライカーだったんですけどね。
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