
【 ラモン ディアス 】 172/68 1959-8-28
FW
| シーズン | 所属チーム | リーグ | 試合 | ゴール |
| 78 | リーヴェル・プレート | Arg1 | 14 | 5 |
| 79 | リーヴェル・プレート | Arg1 | 22 | 12 |
| 80 | リーヴェル・プレート | Arg1 | 40 | 22 |
| 81 | リーヴェル・プレート | Arg1 | 44 | 18 |
| 82 / 83 | ナポリ | Ita1 | 25 | 3 |
| 83 / 84 | Avellno | Ita1 | 24 | 7 |
| 84 / 85 | Avellno | Ita1 | 27 | 5 |
| 85 / 86 | Avellno | Ita1 | 29 | 10 |
| 86 / 87 | フィオレンティーナ | Ita1 | 24 | 10 |
| 87 / 88 | フィオレンティーナ | Ita1 | 24 | 7 |
| 88 / 89 | インテル | Ita1 | 33 | 12 |
| 89 / 90 | ASモナコ | Fra1 | 28 | 15 |
| 90 / 91 | ASモナコ | Fra1 | 32 | 19 |
| 91 / 92 | リーヴェル・プレート | Arg1 | 31 | 20 |
| 92 / 93 | リーヴェル・プレート | Arg1 | 21 | 7 |
| 93 | 横浜マリノス | Jpa1 | 32 | 28 |
| 94 | 横浜マリノス | Jpa1 | 37 | 24 |
| 95 | 横浜マリノス | Jpa1 | 6 | 1 |
| 計 | 493 | 225 |
小柄でありながら、繊細なボールタッチと独特のゴール感覚でゴールを量産したストライカー。
左足のプレーを得意にしていたというか、左足でしかプレーしないと言っても過言ではない。
若い頃はスピードを生かしたプレーが多かったが、徐々にスタイルは変化し、絶妙の動きでDFを出し抜きゴールを決める老獪な点取屋となった。
日本でのプレーを見る限り、根っからの点取屋と見られがちだが、周りの選手を生かす技術も高く、多くのゴールを演出した。
しかし、活躍の場はクラブチームに限られていた、彼ほどの実力を持った選手が何故代表としてほとんどプレーしていないのか、その答はマラドーナにある。
アルゼンチンの名門リーヴェル・プレートの下部組織でプレーを磨き、その実力はデビューの前から高く評価されていた。
78シーズンにトップデビューすると、翌79シーズンにはレギュラーに定着。
パサレラ、ノルベルト・アロンソという名選手と共にプレー、前期リーグ、後期リーグで優勝し完全優勝を果たす。
79年に日本で行われたワールドユースでは、アルゼンチンはぶっちぎりの強さで優勝を果たしている。
ディアスとマラドーナのコンビはこの大会では、異次元のプレーを見せ、彼らを止めることのできる選手はいなかった。
ディアスは得点王に輝き、マラドーナはMVPに輝いている。
その後、リーヴェル・プレートのエースストライカーとして活躍。
アルゼンチン国内の最高峰のストライカーの地位を確固たるものにする。
82/83シーズンにはイタリアのナポリに移籍。
しかし、イタリアのサッカーに馴染む事はできず、不本意なシーズンを送る。
わずか3ゴールに終わったため、シーズン終了後にすぐにAvellnoへ放出される。
ナポリはディアス放出後、マラドーナを獲得する。
その後、ナポリで世界的スーパースターの階段を駆け上がるマラドーナとは対照的に、
ディアスはイタリアではなかなか本領を発揮することはできなかった。
85/86シーズン、イタリアで初めての二桁得点を挙げると、翌シーズンにはフィオレンティーナに移籍。
フィオレンティーナではまずますの活躍を見せたが、R・バッジオの成長に伴い2シーズンプレーした後放出される。
88/89シーズンには、インテルでプレーすることになる。
そして、ここでイタリアに渡ってからの苦労が報われることとなる。
インテルではイタリア代表の長身FWアルド・セレーナと2トップを組むと、この凸凹コンビは見事なコンビネーションを見せる。
ディアスは多くのゴールを挙げ、そしてセレーナの多くのゴールをアシストする大活躍を見せる。
このシーズンのインテルはディアス、セレーナの2トップの他にマテウス、ブレーメ、ベルティ、ベルゴミという選手を擁し、ぶっちぎりの強さで優勝を果たす。
得点王となったセレーナとディアスのコンビはインテル史上最強とも言われ、その後もインテルでの活躍が期待された。
しかしディアスは新しく加入するクリンスマンに押し出されるような形で、素晴らしい活躍を見せたにも関わらず放出されてしまう。
(クリンスマンとセレーナの2トップは機能せず、その後インテルは低迷)
89/90シーズンには、フランスのASモナコに活躍の場を移す。
モナコではベンゲル監督の元、エースストライカーとして君臨。
2シーズンで34ゴールを挙げる大活躍を見せた。
90/91シーズンには、若き日のジョージ・ウェアやジョルカエフと共にフランスカップを獲得している。
91/92シーズン、9シーズンにも渡るヨーロッパのでプレーに終止符を打ち、古巣リーヴェル・プレートに凱旋する。
ヨーロッパの経験を生かして、アルゼンチンでもメディナベージョとのコンビでゴールを量産する。
復帰した91/92の前期シーズンにいきなりリーグ優勝を果たし、自らもシーズンの得点王に輝く活躍を見せた。
93年には横浜マリノスに移籍。
ジーコ、リネカー、リトバルスキーという選手と比べると、日本での知名度は低かったがシーズンが始まると期待通りの活躍を見せ、
見事にJリーグ初代得点王となった。
しかし95シーズンに横浜マリノスの監督に就任したソラーリ監督とは不仲であったため、シーズン途中にチームを退団し、そのまま現役を引退した。
アルゼンチン代表としては23試合に出場して、10ゴールという成績を残している。
クラブレベルの活躍を見ると、代表での活躍に物足りなさを感じる人は多いと思う。
なぜ、23試合にしか出場していないかというと、それはスーパースターのマラドーナとの確執が原因であったと言われている。
ワールドユースでは見事なコンビで活躍したが、その後、自由奔放なマラドーナと真面目なディアスは対立した。
79年には代表デビューし、82年のW杯に出場する。
この大会の優勝候補であったアルゼンチンは、マラドーナと中心としたチームを作る。
しかし、2次リーグのブラジル戦で、しつこいマークに苛立っていたマラドーナが相手選手の腹を蹴り退場となり、チームもそのまま破れ大会を去る。
この試合でディアスは豪快なゴールを決めているが、これが代表での最後の試合となる。
その後、代表監督となったビラルド監督は、さらにマラドーナ中心となるチームを作る。
その構想にはマラドーナと不仲であったディアスをパサレラの名前はなかった。
実質監督よりも権力のあったマラドーナが、ディアスとパサレラを外すように圧力をかけていたと言われている。
ご存知の通りアルゼンチン代表は、86年のW杯でマラドーナの圧倒的な活躍で優勝したため、反マラドーナであった選手を外し、マラドーナを気分良くプレーさせたということは正解だったと言える。
しかし、90年のW杯時のアルゼンチン代表は、今では考えられないが深刻なFWの人材不足であった。
当時、現役時代最高とも言えるパフォーマンスを見せていたディアスを復帰さすべきという声が、アルゼンチンで高まっていたが、結局それは実現しなかった。
W杯では案の定チームは深刻な得点力不足に陥った。
それでも、堅い守りとマラドーナのプレーでほとんど得点を挙げることなく決勝まで進んだ。
しかし、決勝の西ドイツ戦ではまったくいいところなく敗れた。
この大会ではカニーヒアがFWを務めたが、カニーヒアは本来点取屋ではなく、
もしディアスがこのチームに居れば違う結果になっていたのではないかという声は今でも聞かれる。
ディアスは現役引退後、しばらくしてからリーヴェル・プレートの監督に就任する。
リーヴェル・プレートの英雄ではあったが、ディアスの監督就任にはサポーターからも疑問の声が上がっていた。
しかし、ディアスは監督として見事な手腕を発揮する。
多くの若手を積極的に起用し、個人技と組織力を兼ね備えた強力な攻撃陣を作り、中盤からの組織的な守備を取り入れ、攻守にスキのないチームを形成する。
毎シーズンのように主力選手が海外チームに引き抜かれていくがチーム力は落ちず、多くのタイトルを獲得。
リーヴェル・プレートの長い歴史の中でも、最も安定し強かった時代とさえ言われており、監督としての評価は非常に高い。
95/96シーズンには、リベルタドーレス杯でも優勝し、南米最強のチームとなる。
トヨタカップでは監督として再来日し、日本のファンを喜ばせた。
07/08シーズンには、長い沈黙を破りサン・ロレンソにて監督に復帰した。
ディアスがリーヴェル・プレートの監督時代、マラドーナがボカ・ジュニアーズに復帰。
マラドーナは当時、報道陣に向け空気銃を発砲するなどの奇行が目立ち、四面楚歌の状態に陥っていた。
メディアはマラドーナを集中攻撃していたが、ディアスはラジオの番組の中で、
「マラドーナを敵と思ったことはない、行くところがないのであれば、私のところへいつでも来てもらって構わない」とマラドーナを擁護する発言した。
この発言に感動したマラドーナは、その後行われたリーヴェル・プレート対ボカ・ジュニアーズ試合の際、
リーヴェル側のベンチに駆け寄り、ディアスに感謝の言葉を送り抱擁を交わした。
この瞬間、スタジアムの両チームのサポーターから惜しみない拍手が送られ、長岐に渡る確執に終止符が打たれた。