【 カレカ (Careca) 】 182/75 1960-10-5 FW
シーズン | 所属 | リーグ | 試合 | ゴール |
77 | グラニア | Bra1 | - | - |
78 | グラニア | Bra1 | 28 | 13 |
79 | グラニア | Spa1 | 1 | 0 |
80 | グラニア | Bra1 | 17 | 7 |
81 | グラニア | Bra1 | 14 | 8 |
82 | グラニア | Bra1 | 17 | 18 |
83 | サンパウロFC | Bra1 | 20 | 17 |
84 | サンパウロFC | Bra1 | - | - |
85 | サンパウロFC | Bra1 | 17 | 12 |
86 | サンパウロFC | Bra1 | 31 | 25 |
87 | サンパウロFC | Bra1 | - | - |
87 / 88 | ナポリ | Ita1 | 26 | 13 |
88 / 89 | ナポリ | Ita1 | 30 | 19 |
89 / 90 | ナポリ | Ita1 | 22 | 10 |
90 / 91 | ナポリ | Ita1 | 29 | 9 |
91 / 92 | ナポリ | Ita1 | 33 | 15 |
92 / 93 | ナポリ | Ita1 | 24 | 7 |
93 | 柏レイソル | Jap2 | - | - |
94 | 柏レイソル | Jap2 | 25 | 19 |
95 | 柏レイソル | Jap1 | 30 | 10 |
96 | 柏レイソル | Jap1 | 5 | 2 |
97 | サントス | Bra1 | - | - |
ブラジル人選手独特の足技とステップを生かしたドリブルとテクニカルなシュートを得意とし、
さらに一昔前のドイツ人FWのような力強さと勝負強さをも兼ね備えた万能型ストライカー。
ブラジルサッカー史上、屈指の点取屋である。
77シーズンにグラニアでプロデビューすると、すぐに頭角を現し全国的なスターとなる。
翌78シーズンには、当時、州選手権ですら優勝したことのないグラニアを、全国選手権制覇に導く凄まじい活躍を見せた。
すでにブラジルではスーパースター的な存在であったが、決してビッグクラブとは言えないグラニアで82シーズンまでプレーを続ける。
83シーズンからは、サンパウロFCに移籍。
ここでもその得点能力をいかんなく発揮、毎シーズンのようにゴールを量産。
86シーズンには、ぶっちぎりの強さで全国選手権で優勝を果たすと共に、自らも25ゴールを挙げ得点王に輝いた。
87シーズン途中、カレカはイタリアのナポリに移籍する。
ナポリは当時天才マラドーナが君臨しており、86/87シーズンにはまさにマラドーナ1人の力でスクデットを獲得した。
そして翌87/88シーズンに、マラドーナの相棒として、南米最強のストライカーを迎えたのである。
シーズンが始まると、マラドーナとカレカは長年一緒にプレーしていたかのように、素晴らしいコンビネーションでゴールを挙げる。
優勝は逃すも素晴らしいプレーで世界を魅了した。
翌88/89シーズンは、インテルが驚異的な強さを見せ、またもや優勝は逃すが、カレカは19ゴールを挙げ、セレーナに次ぎ得点ランキング2位となった。
カレカはその後もイタリアでは得点王となることはできなかったが、ナポリのチーム状況を見ると、それは無理な話である。
チームは決して攻撃的ではなく、その攻撃に関しては完全に2人の個人技まかせであった。
いくらマラドーナ、カレカの最強コンビでも簡単にゴールを量産できるほどセリエAは甘くない。
もし、当時ACミランでプレーしていれば、ファン・バステン以上の結果を残していたかもしれない。
スクデットは逃すも、このシーズンUEFAカップでは見事優勝を果たし、ヨーロッパに渡って初のタイトルを手にした。
89/90シーズンは、開幕からACミランと壮絶な優勝争いを演じる。
ほとんどの選手が代表選手で、サッキ監督のもと完全に組織化されたACミランと、ナポリの実力からすると普通に考えると圧倒的にACミランの方が優位に思える。
しかし、それを覆したのがカレカとマラドーナだった。
直接対決でもミランを下し、ナポリは3シーズン振りの優勝を果たした。
その後もマラドーナと共に、ヨーロッパ最強のACミランと幾度となく名勝負を繰り広げるが、スクデットを奪冠することはできなかった。
90/91シーズン途中に、マラドーナがイタリアから追放されるが、それからもカレカはゴールを挙げ続けたが、92/93シーズンのプレーを最後にイタリアを去った。
新たに活躍の場として選んだのは、なんと日本の2部リーグ。
柏レイソルは1部昇格の切り札として、世界的ストライカーを獲得。
カレカはその期待に応えて、見事チームを1部昇格に導いたが、年齢から来る衰えや怪我でその後充分な活躍はできなかった。
96シーズン途中に日本と離れ、母国の名門サントスでプレーした後、ブラジルの3部か4部リーグの会長兼選手となり、40過ぎまでプレーし引退した。
代表では60試合で29ゴールという活躍を見せ一時代を築いた。
82年に代表デビューし、同年のW杯には「黄金のカルテット」と共にエースストライカーとして出場するはずであったが、怪我により出場を逃した。
もし、あの伝説のチームにカレカがいたのなら、結果は違っていたと言われている。
86年のW杯では準々決勝までの4試合で4ゴールを挙げ、エースとして抜群の働きを見せる。
準々決勝の相手は、将軍プラティに率いるフランス。
カレカはこの試合で1ゴールを挙げ、他にも素晴らしいプレーでブラジルを牽引したが、PK戦の末敗退した。
90年のW杯でもエースとして出場。
ブラジルはグループリーグを簡単に通過した。
決勝トーナメント1回戦の相手は、首の皮一枚でなんとか勝ち残ったアルゼンチン。
ナポリでの相棒マラドーナはリーグ戦の死闘で、満身創痍で大会に入り、まったくキレのない動きを見せていた。
試合はブラジルが前半からカレカを中心に圧倒的に攻め込み、シュートの雨あられを浴びせるが、なぜかゴールは決まらなかった。
試合終盤、それまで試合から消えていたマラドーナがドリブルを始めると、1人交わして、そのままDFを引き連れたまま、ドリブルを続ける。
そして、マークについていたDFの走っている股の下を通して、フリーのカニーヒアにスルーパスを送った。
マラドーナの驚異的なワンプレーによってカレカのW杯は終わった。
「カレカ」とはハゲ頭という意味で、本人はハゲていませんが、ファンだったコメディアンからとったニックネームらしいです。
マラドーナとはピッチ外でも非常に仲がよかったようで、現在でも頻繁に連絡を取り合う仲だそうです。