【 エリック・カントナ (Eric Cantona) 188/80 1966-5-2  FW/MF



シーズン 所属チーム リーグ 試合 ゴール
83 / 84 オゼール Fra1 2 0
84 / 85 オゼール Fra1 4 2
85 / 86 オゼール Fra1 7 0
FC Martigues Fra2 15 4
86 / 87 オゼール Fra1 36 13
87 / 88 オゼール Fra1 32 8
88 / 89 オリンピック・マルセイユ Fra1 22 5
ボルドー Fra1 11 6
89 / 90 モンペリエ Fra1 33 10
90 / 91 オリンピック・マルセイユ Fra1 18 8
91 / 92 ニース Ita1 16 2
リーズ・U Eng1 15 3
92 / 93 リーズ・U Eng1 13 6
マンチェスター・U Eng1 22 9
93 / 94 マンチェスター・U Eng1 34 18
94 / 95 マンチェスター・U Eng1 21 12
95 / 96 マンチェスター・U Eng1 30 14
96 / 97 マンチェスター・U Eng1 36 11
367 131

強靭な肉体とテクニックを兼ね備え、創造性溢れるプレーで見る者を魅了する。
アシストからフィニッシュまで攻撃に関しては完璧な能力を持っており、1人で試合を決めてしまう能力の持ち主。
しかし超強烈なパーソナリティの持ち主で、様々なトラブルを起こし続けてきた。
サッカー界でも数少ないカリスマ性を持った選手と言える。

プレースタイルは豪快かつ繊細、絶妙のトラップから豪快なシュートを放つ。
また、ヘディングからも多くのゴールを挙げている。
そして、特筆すべきは非常に柔らかいタッチから出されるパスである。
チップキックを得意としており、その意表を突いたパスは相手DFを混乱に陥れた。

17歳で名門オゼールでトップデビューを果たす。
85/86シーズンのFC Martiguesへレンタル移籍するとブレイクする。
86/87シーズンにはオゼールに呼び戻されエースとして活躍するようになる。
この頃には、すでに審判、敵、味方関係なく、暴言、暴力行為を働くようになっていた。

87年の8月には代表デビューを果たし、いきなりレギュラークラスで活躍するようになる。

87/88シーズンもオゼールで抜群のプレーを見せると、シーズン終了後に当時のフランスでの最高額でオリンピック・マルセイユに移籍する。
スーパースターへの階段を順調に登っていたが、このシーズン途中にはタピ会長との確執からボルドーに放出される。

さらに代表では当時監督であったアンリ・ミシェルに暴言を吐いたことにより、代表を追放される。

その後、さまざまなクラブを渡り歩き、プレーでは最高のパフォーマンスを披露したのではあるが、それと同時にさまざまな問題を起こし続ける。

89年、フランス代表監督にプラティニが就任すると、カントナは代表に復帰。
当時フランス国内では擁護してくれる人物がいないほどの問題人物ではあったが、プラティニは才能を非常に高く評価し、気難しい性格を理解していた。
代表ではパパンと攻撃陣を形成し、圧倒的なパフォーマンスを見せる。

クラブでも最高のパフォーマンスを見せるも、相変わらずの問題行動でチームを転々とする。
モンペリエではチームに国内カップ優勝をもらたし、マルセイユではリーグ優勝を果たしているがいずれも1シーズンで退団している。

91/92シーズンはニースに移籍するが、ここでも問題を起こす。
試合中、審判へボールを投げつけ退場処分を受け、さらに聴聞会で暴言を吐きまくったことにより、2ヶ月の出場停止が言い渡される。
するとカントナは突然、現役引退を発表する。

この引退宣言を耳にしたプラティニは、カントナのサッカー人生をここまま終わらしてはならないと奔走。
しかし、すでにフランス国内にカントナを受け入れてくれるクラブは無かった。
そこで、イングランドのリーズ・Uに働きかけ、なんとかカントナの移籍先が決まった。

リーズ・Uの一員となったカントナは、相変わらずの問題児であったが、素晴らしいプレーでサポーターを唸らせる。
このシーズン、途中からチームに加わったカントナは、ゴードン・ストラカン、チャップマン、マカリスターらの個性的な面々と攻撃的サッカーを展開し、チームにリーグ優勝をもたらした。


プラティニ監督率いるフランス代表は、ベテランと若手が融合した素晴らしいチームであった。
そして、そのチームの中心にいたのがカントナであった。
フランス代表は89年から92年まで3年近く無敗という強さを誇り、92年の欧州選手権の予選では、スペイン等の強豪と同組でありながら、全勝という驚異的な強さで本戦に勝ち上がった。
しかし、欧州選手権本戦では、大会を制したデンマークに敗れたことにより、グループリーグ敗退というまさかの結果に終わった。
カントナもこの大会では輝くことはなく、プラティニは責任をとり監督を辞任した。


91/92シーズンのリーズ・Uでの活躍を高く評価したマンチェスター・Uが、翌92/93シーズン途中にカントナを引き抜くこととなった。
マンチェスター・Uのファーガソン監督は、カントナの才能を非常に高く買っていた。
そして、何度退場処分を受けようが、その才能を信じ、できる限りプレーしやすいチームを作った。
カントナに率いられたマンチェスター・Uは抜群の強さを見せ、26シーズンのリーグ優勝を成し遂げた。
ここからマンチェスター・Uの黄金期が始まる。

その後も、カントナは驚異的なプレーの連続でマンチェスター・Uに多くのタイトルをもたらす。
それと同時にさらに多くの問題行動で、多くの出場停止処分を受ける。
しかし、ファーガソンもチームメイトもそれらの行為を責めなかった。

マンチェスター・Uにもたらしたのは、多くのゴールだけではなかった。
カントナは一切の妥協を許さない完璧主義者であり、それはチームの練習においてもそうであった。
練習では他人以上に、自分に厳しく、納得いくまでとことん自分を追い込んだ。
フランスでは受け入れられなかったが、マンチェスター・Uのチームメイトはその姿に引っ張られるように練習に励み、チームはみるみる力を付けていった。

93/94シーズンには、自己最多となる18ゴールを挙げ、リーグ連覇を成し遂げ、マンチェスター・Uだけでなく、押しも押されぬプレミアリーグのスーパースターとなった。


94年W杯欧州予選では、フランス代表はプラティニの後を継いだウリエによって率いられる。
ウリエはプラティニが作り挙げたチームを土台にし、攻撃的なチームで予選に挑んだ。
フランスはカントナ、パパンと中心とした攻撃陣と、ブラン、デサイーを中心とした守備陣が咬み合い抜群の強さを見せた。
誰もが余裕で予選を通過すると思っていたが、予選終盤にフランス代表は突如バランスを崩し、格下イスラエルにも破れ、本戦出場決定は最終戦まで持ち越された。
予選最終戦の相手はブルガリア。
フランスのホーム、パリで行われた最終戦は、フランスは引き分け以上でW杯本戦出場という有利な状況にあった。

フランスは試合前半、パパンが落としたボールを、カントナが豪快に蹴りこみ先制点を挙げる。
誰もがこの時点でフランスのW杯出場が決まったと思った。
しかし、落とし穴が待っていた。
ブルガリアは前半のうちに追いつく。
試合後半はフランスが押し気味に試合を進めるが、ゴールを奪えない嫌な展開で進んでいた。
ウリエは試合後半に明らかに不安定になっていた中盤を安定させるわけでもなく、攻撃的なジノラをピッチに送り込んだ。
そして迎えたロスタイム、ジノラのセンタリングのルーズボールから、カウンターを仕掛けたブルガリアは、コスタディノフにボールを託す。
そして、コスタディノフの豪快なシュートがネットに突き刺さりフランスはW杯出場を逃した。
このパリの悲劇により、カントナのW杯出場の夢は断たれることとなった。


そして94/95シーズンを迎え、その事件はクリスタル・パレス戦で起こった。
レッドカードを受け退場処分を受けたカントナに対して、試合開始から激しい罵声を浴びせ続けていたクリスタル・パレスの1人のサポーターがさらに罵声を浴びせた。
するとカントナは客席に駆け寄り、なんと豪快な飛び蹴りを見舞い、さらにパンチを繰り出した。
(いわゆる「カンフーキック事件」)
この前代未聞の事件に、1年近い出場停止と禁固2週間又は120日間の社会奉仕活動という、非常に重い処分が下された。
マスコミもサポーターも誰もが今度ばかりはカントナのサッカー人生は終わったと思った。

しかし95年10月出場停止が解けると、ファーガソンはすぐにピッチに立たせ、復帰戦ではPKを決め歓喜の涙を流した。
復帰してからは、以前よりもさらに威風堂々とした雰囲気を漂わせ、より一層オーラの増したカリスマとなっていた。
このシーズン、復帰してから凄まじいプレーを見せたカントナはチームを、リーグ優勝と国内カップ優勝という2冠をもたらし、
自身もシーズン最優秀選手に選ばれた。


96/97シーズンも、チームをリーグ優勝に導く活躍を見せたが、このシーズン終盤に突如「現役引退」を表明。
まだ31歳という年齢だけに誰もが耳を疑ったが、本人の意思は固く、チーム関係者、世界中のサッカーファンに惜しまれながらピッチを去った。

このあまりにも早い引退には、「カンフーキック事件」で事実上フランス代表から追放されていたことも関係していると言われている。


フランス代表での成績は45試合で20ゴール。

フランスサッカー史上、最高の問題児であることは間違いないでしょう。

彼が受けた出場停止処分は数え切れないほどあります。
ユニフォームを監督に投げつけたり、審判の足を踏んだり、サポーターと揉めたのは「カンフーキック事件」だけでありません。
本当ならサッカー界から追放されてもおかしくはなかったでしょう。
しかし、プラティニとファーガソンとの出会いが彼をスーパースターに導きました。
この2人との出会いがなければ、彼の成功は有り得なかったでしょう。




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