
【 ズボニミール ボバン】 183/79 1968-10-8
MF
| シーズン | 所属 | リーグ | 試合 | ゴール |
| 85 / 86 | D・ザグレブ | Yug1 | 2 | 0 |
| 86 / 87 | D・ザグレブ | Yug1 | 28 | 8 |
| 87 / 88 | D・ザグレブ | Yug1 | 30 | 13 |
| 88 / 89 | D・ザグレブ | Yug1 | 0 | 0 |
| 89 / 90 | D・ザグレブ | Yug1 | 23 | 9 |
| 90 / 91 | D・ザグレブ | Yug1 | 26 | 15 |
| 91 / 92 | D・ザグレブ | Yug1 | 0 | 0 |
| バリ | Ita1 | 17 | 2 | |
| 92 / 93 | ACミラン | Ita1 | 13 | 0 |
| 93 / 94 | ACミラン | Ita1 | 20 | 4 |
| 94 / 95 | ACミラン | Ita1 | 21 | 1 |
| 95 / 96 | ACミラン | Ita1 | 13 | 3 |
| 96 / 97 | ACミラン | Ita1 | 28 | 1 |
| 97 / 98 | ACミラン | Ita1 | 23 | 2 |
| 98 / 99 | ACミラン | Ita1 | 27 | 2 |
| 99 / 00 | ACミラン | Ita1 | 17 | 5 |
| 00 / 01 | ACミラン | Ita1 | 16 | 2 |
| 01 / 02 | セルタ・ヴィゴ | Spa1 | 4 | 0 |
| 計 | 308 | 67 |
クロアチアサッカーの伝説的人物。
最高級テクニックと非常に広い視野を持ち、創造的なプレーを得意とする。
さらに戦術理解度が高く、献身的なディフェンスもこなす近代的な司令塔。
そのため本来のポジションであるトップ下ではなく、左サイドや中盤の底などでプレーさせられることが多かった。
しかし、どのポジションであろうと与えられた仕事はきちっとこなす頼りになる選手。
85/86シーズンに、ユーゴスラビアリーグの屈指の名門ディナモ・ザグレブでデビューすると、その才能はたちまち開花する。
翌85/86シーズンには若干18歳でキャプテンを任せられるようにまでなる。
87年のワールドユースではプロシネツキらと共に中心メンバーとして活躍し、見事に優勝を果たしている。
その後も順調にプレイヤーとして成長し、若くしてユーゴスラビア代表にまで登りつめたボバンであったが、ユーゴスラビアは政治情勢が悪化し、
セルビア人とクロアチア人の対立が激しくなっていった。
89/90シーズンのクロアチアの名門ディナモ・ザグレブと、セルビアの名門レッドスターの一戦で事件が起こった。
政治的背景を理由に暴動を起こした、ディナモ・ザグレブ側のサポーターとセルビア人の警察隊が衝突。
一方的に警察隊によって叩きのめされるサポーターを見て、一人の選手が警察隊の方に走っていき跳び蹴りを食らわした。
その飛び蹴りをした人物こそボバンであった。
もちろん、警察に対して暴力行為を行なったということで出場停止処分を受ける。
この半年間の処分によって、目の前に近づいていた90年のW杯の出場を逃す。
しかし、本人はこの出来事を全く後悔していないという。
90/91シーズンの途中に出場停止が解けると、鬱憤を晴らすように親友シュケルと共に驚異的なパフォーマンスを披露する。
優勝は逃すが、活躍に目をつけたACミランによって引き抜かれることになる。
ミラノに渡ったボバンであったが、当時オランダトリオの最盛期であり、外国人枠の関係で活躍の場がなかったことから、すぐにバリにレンタルされる。
チームは振るわなかったが、ボバンは素晴らしいプレーを見せ、翌シーズンにはACミランに復帰する。
しかし、ACミランではやはり外国人枠の関係で出場機会は限られていた。
それでもボバンは限られた出場機会でも着実に仕事をこなし、当時の監督であったカペッロの信頼を徐々に勝ち取っていく。
93/94シーズンからは、本来のトップ下ではなかったがサイドでレギュラーとして活躍し、リーグ優勝に大きく貢献。
さらにCLでも優勝を果たし、チームに無くてはならない存在となる。
その後も外国人枠の関係でシーズンをフルに活躍するということは少なかったが、見事なパフォーマンスでチームに貢献する。
ACミランで多くのタイトルを獲得したボバンであったが、左サイドや中盤の底の仕事が多く、本来のトップ下でプレーするという機会はほとんどなかった。
98/99シーズン、新しくチームを率いる事になったザッケローニはボバンをレギュラーから外し、3トップでシーズンに入った。
しかしチームは機能せず低迷。
そこで、ザッケローニは苦し紛れに3トップから2トップに以降、トップしたにボバンを置くシステムを執った。
意外な形で念願のポジションでプレーすることになったボバンは司令塔として見事はプレーを披露、チームは勢いを取り戻す。
ボバンを中心とするチームはラツィオを壮絶は優勝争いを演じ、見事にリーグ優勝を果たした。
開幕時にはボバンをレギュラーから外していた、ザッケローニもシーズン終了後には「ボバンはバロン・ドールに値するプレイヤーである」
と最高の評価をするまでになっていた。
その後もトップ下で輝き続けると思われたが、もともと故障の多い選手であり、この頃からはさらに多くの故障に悩まされるようになっていた。
出場機会は徐々に減少し、00/01シーズンを最後に、長年慣れ親しんだミラノを離れる。
01/02シーズンには、スペインのセルタ・ヴィゴに移籍する。
セルタ・ヴィゴにはロシア代表の司令塔モストボイが在籍していたが、もちろんそのことを承知での移籍であった。
本人はレギュラー争いには自信があったのであろうが、当時全盛期を迎えていたモストボイと、選手としてのピークが過ぎていたボバンとの間には大きな隔たりがあった。
モストボイの実力を認めレギュラー争いに敗れたボバンはシーズン途中にユニフォームを脱ぎ、現役生活に別れを告げた。
代表では、ユーゴスラビア代表として7試合出場、1得点。
クロアチア代表として51試合で12得点を挙げている。
個性的なスターが揃っていた90年代のクロアチアの精神的支柱であった。
クロアチアが初めて出場した国際舞台、96年欧州選手権ではベスト8という成績を残したが、ボバン自身は調子も悪く満足な結果を残すことはできなかった。
98年のW杯でも故障を抱え、決して本調子とは言えない状態で大会に挑む。
クロアチアはカウンター中心の完全に個人技任せのチームであったが、ボバンが中盤で精力的に動き見事にチームをまとめ上げた。
チームは好調を維持し決勝トーナメントに進出。
準々決勝では96年欧州選手権デに敗れたドイツと対戦し、3対0で破る番狂わせを演じた。
準決勝ではフランスと対戦し惜敗してが、3位決定戦でオランダを破り3位という歴史的快挙を遂げた。
ミランに移籍したことにより、一時は活躍の場を失いかけていましたが、自らの実力でレギュラーとなりました。
優れたプレイヤーであったと同時に、素晴らしい人格者で多くの人から尊敬を集める人物です。
シュケルとは無二の親友で、98年のW杯でドイツを破った夜には、朝まで飲み明かし一緒の布団で寝たそうです。
![]()