
【 オリバー ビアホフ 】 191/90 1968-5-1
FW
| シーズン | 所属チーム | リーグ | 試合 | ゴール |
| 86 / 87 | ユルティゲン | Dui1 | 19 | 1 |
| 87 / 88 | ユルティゲン | Dui1 | 12 | 4 |
| 88 / 89 | ハンブルガーSV | Dui1 | 24 | 6 |
| 89 / 90 | ハンブルガーSV | Dui1 | 10 | 0 |
| ボルシアMG | Dui1 | 8 | 0 | |
| 90 / 91 | ザルツブルグ | Aus1 | 37 | 23 |
| 91 / 92 | アスコリ | Ita1 | 17 | 2 |
| 92 / 93 | アスコリ | Ita2 | 35 | 20 |
| 93 / 94 | アスコリ | Ita2 | 32 | 17 |
| 94 / 95 | アスコリ | Ita2 | 33 | 9 |
| 95 / 96 | ウディネーゼ | Ita1 | 31 | 17 |
| 96 / 97 | ウディネーゼ | Ita1 | 23 | 13 |
| 97 / 98 | ウディネーゼ | Ita1 | 32 | 27 |
| 98 / 99 | ACミラン | Ita1 | 34 | 20 |
| 99 / 00 | ACミラン | Ita1 | 30 | 12 |
| 00 / 01 | ACミラン | Ita1 | 27 | 6 |
| 01 / 02 | ASモナコ | Fra1 | 18 | 4 |
| 02 / 03 | キエーボ | Ita1 | 26 | 7 |
| 計 | 448 | 188 |
空中戦を得意とし、ヘディングで多くのゴールを挙げた90年代を代表する空の王者。
他の空中戦を得意とした大柄な選手は、どちらかと言えば「剛」のイメージであるが、ビアホフは「柔」の選手と言える。
もちろんパワープレーを得意としているが、それだけでの選手ではなく、ゴール前で非常に多くの動きを入れ、DFとの駆け引きが非常に巧い。
また、ヘディングは強引に押し込む、叩き込むというものではなく、確実にボールを芯でとらえ、コースを狙ったものが多い。
もう一点この選手を紹介する上で欠かせないことがある。
それは、ドイツ代表のエースと呼べるまでの選手になったにも関わらず、ドイツの国内ではほとんど結果を残す事はできず、国外で才能が開花した選手である。
ユルティンゲンのユースチームで育ったビアホフは、18歳で86/87シーズンにトップデビューを果す。
しかし、結果を残すことはできなかった、さらに目を掛けてもらっていた監督がチームを去ったことから、出場機会を無くす。
88/89シーズンには、ハンブルガーSVに移籍。
このシーズン、6ゴールを挙げまずまずの活躍を見せたが、翌89/90シーズンは、ゴールを挙げることのないままシーズン途中にボルシアMGに移籍。
しかし、そこでも活躍することはできなかった。
国内で結果の残すことのできず、90/91シーズンには隣国のオーストリアに活躍の場を移すことになる。
そして、ここで才能が花開く。
ザルツブルグでレギュラーポジションを得ると、開幕からゴールを量産。23ゴールを挙げ得点王に輝く。
そして、この活躍を見たセリエAのアスコリからオファーが舞い込む。
イタリアでのプレーを熱望していたことから、すぐに交渉はまとまり、91/92シーズンからイタリアでプレーすることになる。
アスコリでは、ブルーノ・ジョルダーノと2トップを組み、日本でも活躍したトログリオらと共に攻撃陣を形成したが見事に不発、チームは2部に降格する。
ビアホフはアスコリに留まり、2部でプレーを続けることになる。
92/93シーズンには、2部で20ゴールを挙げる活躍を見せると、その後も2部ではあるが抜群の決定力で、安定した活躍を見せる。
そして、その地道な活躍は実を結ぶ。
1部に昇格したウディネーゼのザッケローニ監督によって、引き抜かれることとなった。
95/96シーズン、ウディネーゼはビアホフとパオロ・ポッジと2トップを組ませ、トップ下にストロッパを置くシステムでシーズンに挑む。
シーズンが始まると、ビアホフはゴールを量産。
右サイドバックのヘルベグの活躍もあり、得意のヘディングで次々とゴールを挙げ、ウディネーゼの上位進出に大きく貢献。
最終的に17ゴールを挙げたビアホフは、セリエAを代表するストライカーの一人となった。
翌96/97シーズンには、ウディネーゼにはマルシオ・アモローゾが加入。
ビアホフ、ポッジ、アモローゾの3トップはセリエAで猛威を振るう。
一時期ビアホフは故障で戦線を離脱したものの、チームはシーズン5位という好成績を収める。
迎えた97/98シーズン、3トップに加え、ヨーゲンセン、ロカテッリを加え攻撃サッカーは完成の域に達する。
ビアホフは驚異的なペースでゴールを積み重ね、27ゴールを挙げて得点王に輝く。
そして、チームは一時期優勝争いにも食い込むほどの強さを見せ、最終的には3位という好成績を収めた。
この活躍が評価される形となり、当時低迷期に入っていたACミランに、ザッケローニ監督、ヘルベグと共に移籍することになる。
98/99シーズン、ACミランはザッケローニ監督の元、3シーズン後にスクデットを獲得できるチームを目指し始動する。
シーズン序盤、ACミランはビアホフ、ウェア、グリエルミンピエトロもしくは、レオナルドの3トップで戦うがチームは機能せず思うような成績を挙げることができなかった。
しかしシーズン中盤、ザッケローニが2トップとトップ下にボバンというシステムにチームを移行させてからは、チームは軌道に乗りビアホフもゴールを量産。
シーズン後半には驚異的なペースで勝ち点を積み重ね、ついにはリーグ優勝を果たしてしまう。
ビアホフはシーズンを通してザッケローニのサッカーの中心として活躍、20ゴールを挙げエースとしての役割を果たした。
翌99/00シーズン、ACミランはもう一人のワールドクラスのFWを獲得する。
ディナモ・キエフでの活躍が認められたアンドリュー・シェフチェンコである。
ACミランはビアホフとシェフチェンコの2トップでシーズンに挑むが、この2トップは非常に相性が悪かった。
というか、ビアホフがシェフチェンコの単独プレーの犠牲になったと言ってもいいかもしれない。
シェフチェンコは24ゴールを挙げ得点王になったが、ビアホフは12ゴールと大きくゴール数を減らし、チームも連覇を逃す。
00/01シーズンには、シーズンわずか6ゴールしか挙げることができず、恩師であるザッケローニと共にチームを去った。
01/02シーズンからは、ASモナコでプレー。
しかし、当時の監督であったデシャンと起用法を巡り対立したため、出場機会は少なく、思うような結果を残すことはできなかった。
02/03シーズンには、再びイタリアに戻り、キエーボでプレーした。
すでに年齢的な問題で、フルに活躍することはできず、シーズン中にはこのシーズン終了後の引退を示唆。
現役として最後の試合となる、シーズン最終節のユベントス戦ではハットトリックを達成し、有終の美を飾った。
ドイツ代表としては、70試合で37ゴールという成績を残している。
27歳という遅咲きの代表デビューでありながら、この成績はすごい。
代表デビューした96年には、いきなり欧州選手権のメンバーに選ばれる。
スーパーサブとして起用されたが、あまり活躍することはできなかった。
しかし、決勝のチェコ戦では途中出場すると、すぐにヘディングで同点ゴールを挙げ、
延長ではワントラップから強引なシュートを放ち、GKの手を弾きゴールデンゴールを挙げ、一躍ドイツのスターとなった。
( これが国際Aマッチ史上初のゴールデンゴール )
その後、クリンスマンと2トップを組み、ドイツ代表の前線に君臨。
98年のW杯予選ではクリンスマンが一時期スランプに陥るが、その間もゴールを挙げ続け欧州予選突破に大きく貢献した。
W杯でもクリンスマンとの2トップで活躍。
グループリーグで2ゴールを挙げる活躍を見せると、決勝トーナメント1回戦のメキシコ戦では試合終了間際の86分に決勝ゴールを挙げている。
しかし、準々決勝ではクロアチアの鉄壁のディフェンスの前に、何度もシュートを放つが決めることはできず完敗した。
02年のW杯も出場。
レギュラーではなかったが、サウジアラビア戦では途中交代で出場すると、すぐにゴールを決めている。
ブンデスリーガでは全く成功せず、イタリアで大成した異色の選手です。
モナコでの活躍が期待されていただけに、デシャンとの対立は非常に残念でした。
もし、モナコで順調にプレーできていれば、もう少し長く選手を続けていけたんじゃないでしょうか。