
【 ガブリエル バティストゥータ 】 185/78 1969-2-1
FW
| シーズン | 所属チーム | リーグ | 試合 | ゴール |
| 88 / 89 | ニューウエルズ・O | Arg1 | 16 | 4 |
| 89 / 90 | リヴェール・プレート | Arg1 | 7 | 4 |
| 90 / 91 | ボカ・ジュニオールス | Arg1 | 19 | 11 |
| 91 / 92 | フィオレンティーナ | Ita1 | 27 | 13 |
| 92 / 93 | フィオレンティーナ | Ita1 | 32 | 16 |
| 93 / 94 | フィオレンティーナ | Ita2 | 26 | 16 |
| 94 / 95 | フィオレンティーナ | Ita1 | 31 | 26 |
| 95 / 96 | フィオレンティーナ | Ita1 | 32 | 19 |
| 96 / 97 | フィオレンティーナ | Ita1 | 31 | 13 |
| 97 / 98 | フィオレンティーナ | Ita1 | 32 | 21 |
| 98 / 99 | フィオレンティーナ | Ita1 | 28 | 21 |
| 99 / 00 | フィオレンティーナ | Ita1 | 30 | 23 |
| 00 / 01 | ASローマ | Ita1 | 28 | 20 |
| 01 / 02 | ASローマ | Ita1 | 20 | 7 |
| 02 / 03 | ASローマ | Ita1 | 12 | 2 |
| インテル | Ita1 | 12 | 4 | |
| 03 / 04 | Al-Arabi | Qat1 | 18 | 25 |
| 04 / 05 | Al-Arabi | Qat1 | 3 | 0 |
| 計 | 404 | 245 |
強烈な右足と、フィジカルの強さを生かした空中戦は凄まじい威力を誇る。
しかしそれだけではなく、GKをかわしてのシュートやループシュート、FKも得意としており、さらにポジショニングも絶妙で、ポストプレーにも絶対の自信を持っていた。
まさに万能型センターフォワードと言える。
強豪でとは言えないフィオレンティーナで、毎シーズンのようにゴールを量産し、その決定力は驚異的と言える。
もしビッグクラブで活躍し、多くのタイトルを獲得していれば「マルコ・ファン・バステン」以上の名声を得ていたかもしれない。
88/89シーズンにニューウェルズ・オールドボーイズでトップデビュー。
このシーズン、リーグ戦で4ゴールを挙げ、リベルタドーレス杯でも活躍、チームの準優勝に貢献する。
89/90シーズンには、名門リーヴェル・プレートに移籍。
さらなる活躍が期待されたが、メディナベージョや、ウルグアイ人ストライカー、ルーベン・ダ・シルバの影に隠れる形となり、ほとんど活躍できなかった。
チームは優勝するが、シーズン終了後にはライバルチームのボカ・ジュニアーズに放出される。
90/91シーズン、ボカに移籍するとレギュラーとして起用され、ストライカーとしての才能を発揮し始める。
このシーズン、シーズン中盤からゴールラッシュを見せ、11ゴールを挙げる活躍を見せた。
この活躍によって、すぐに代表に招集されレギュラーとして定着する。
91年の年米選手権では、いきなりエースとして活躍、チームを優勝に導くとともに、自身6ゴールを挙げ大会得点王に輝いた。
この活躍によって、ヨーロッパの多くのビッグクラブから注目されるようになる。
ユベントスやレアル・マドリードも獲得に動いたが、結局R・バッジオの後釜を探していたフィオレンティーナに移籍することになった。
91/92シーズン、シーズン途中からレギュラーとなると、13ゴールを挙げエースストライカーとしての役割を果たす。
翌92/93シーズン、フィオレンティーナはチームの中心として活躍してきたドゥンガに見切りをつけ、B・ラウドルップとエッフェンベルグというスター選手をバイエルンから獲得。
開幕から攻撃的サッカーを展開。一時は首位に立つほどの勢いであったが、シーズン中盤には失速する。
終盤にはほとんど勝ち点を挙げることはできずに、2部に降格してしまう。
降格によって移籍の噂が出たが、チームを離れず2部でプレーすることを決意。
この行動によって、熱狂的で知られるフィオレンティーナのサポーターの心を掴む。
93年の南米選手権では、クラブの2部降格の悪夢を振り払うかのように素晴らしいプレーを見せ、決勝のメキシコ戦では2ゴールを挙げ、連覇に大きく貢献する。
93/94シーズン、2部での戦いとなったが、チームはバティストゥータ、エッフェンベルグを中心として戦い、危なげなく勝ち点を重ね、1シーズンで、1部への復帰を果たした。
94年のW杯では、アルゼンチン代表のエースストライカーとして大会に挑んだ。
バティストゥータは初戦のギリシャ戦から爆発しハットトリックを記録。
チームはグループリーグで着実に2勝を挙げ、決勝トーナメント進出を決める。
しかし、戦術的にも精神的にも支柱であったマラドーナが、薬物使用で大会から追放されると、チームは下降線を辿る。
決勝トーナメント1回戦で「東欧のマラドーナ」ハジ率いるルーマニアと対戦、この試合で1ゴール挙げるが、ハジを中心としたカウンターの前に敗れ大会を去った。
94/95シーズン、1部に復帰したフィオレンティーナは、ポルトガルの天才ルイ・コスタを新しく司令塔として迎える。
この最高の司令塔を得たことによって、バティストゥータの得点感覚は開幕から爆発する。
開幕から11戦連続ゴールというリーグ新記録を達成し、26ゴールを挙げ得点王に輝き、世界有数のストライカーとなる。
95年の南米選手権では、再び得点王に輝くが3連覇を逃している。
その後、当たり前のように毎シーズンのようにゴールを量産。
95/96シーズンには国内カップを制するが、フィオレンティーナというチームからするとリーグ優勝、またはヨーロッパタイトルというのは非常に遠いものであった。
98年のW杯予選では、パサレラ監督により冷遇されることになる。
パサレラはセンターフォワードに教え子であるクレスポを起用するようになる。
しかし、監督の要望どおり長髪を切り、結果を残す中でレギュラーの座を奪還し本戦挑む。
98年のW杯では、グループリーグリーグから絶好調。
初戦の日本戦で決勝ゴールを挙げると、ジャマイカ戦ではハットトリックを達成。
2大会連続でのハットトリックという偉業遂げている。
決勝トーナメント1回戦で、因縁のライバル、イングランドを破ると、準々決勝ではオランダと対戦することになった。
この試合、1対1の同点の場面で、ヴェロンのスルーパスを受けたバティストゥータがDFを交わし、強烈なシュートを放つという場面があった。
しかし、ボールはゴールポストの内側に当り、惜しくもゴールインしなかった。
もし、あのシュートが5センチずれていれば、試合の結果は変わっていたかもしれない。
結局、試合終了前のベルカンプのスーパーゴールによってアルゼンチンは敗れた。
98/99シーズン、フィオレンティーナは新しい指揮官として、名将トラパットーニ監督を迎える。
トラパットーニは意外にも攻撃的なバティストゥータ、ルイス・オリベイラ、エジムンドの3トップの布陣を組み、攻撃的サッカーを展開する。
シーズン途中まで首位攻防を繰り広げ、17試合で17ゴールという驚異的なハイペースでゴールを量産していた。しかし、バティストゥータが肉離れで戦線を離脱する。
そして、エジムンドがリオのカーニバルのため一時帰国してしまう。
その後、チームは下降線を辿り、優勝したACミランには大きく差を開けられ、結局3位に終わった。
00年頃から、フィオレンティーナは深刻な財政難に陥る。
また、バティストゥータはチームに愛情を示しながらも、念願であるリーグ優勝ができないという現実に直面していた。
この両者の思惑が一致し、40億円の移籍金でASローマに移籍する事になる。
熱狂的なフィオレンティーナの一部のサポーターは怒り狂い、彼の銅像を壊してしまったということであるが、
多くのサポーターは、長年チームのために、決して恵まれているとは言えない環境の中で、貢献してくれた偉大なストライカーを感謝の気持ちで送り出したとも言われている。
00/01シーズン、ASローマの一員となったこの頃には年齢的な問題から、故障が多くなっており、決して万全と言えない体調であったが、開幕から快調にゴールを重ねる。
(古巣フィオレンティーナとの一戦でもゴールを決めるが、ゴール後喜ぶ事はなく、涙ぐんでいたのが印象的であった。)
このシーズン20ゴールを挙げ、夢にまで見たリーグ制覇を成し遂げる。
しかし01/02シーズン、突然パフォーマンスに陰りが見え出す。
スランプは一時的なものと思われていたが、シーズン通して体にキレが戻る事はなく、7ゴールでシーズンを終える。
02年のW杯は、シーズンの不調を引きずったまま挑む事になる。
センターフォワードにはクレスポを起用するのではないかという声もあったが、レギュラーとしてピッチに立ったのはやはりバティストゥータであった。
グループリーグ初戦のナイジェリア戦では、ヘディングで決勝点を挙げたが、動きにもキレがなく、チーム全体も不調であった。
結局、ナイジェリア戦の1勝のみで、まさかのグループリーグ敗退という結果に終わった。
02/03シーズンも本来の動きを取り戻せず、シーズン途中にインテルに移籍。
しかし、ここでもあまり活躍する事はできずに、シーズン終了後、長年プレーしたイタリアを離れカタールに旅立った。
カタールでの最初のシーズンでは18試合で25ゴールを挙げ、貫禄の得点王となるが、翌シーズンは故障のためほとんどプレーできず、そのまま現役を引退した。
代表通算成績は78試合56ゴール。
マークが何人ついてようが、強引に突破し、強烈なシュートを放つ姿はまさに「日向小次郎」。
90年代、いや近代サッカー最強のストライカーと言っても過言ではないでしょう。
得点王になったのは1度だけで、意外に少ないと思われる方は多いと思いますが、96/97シーズンにPKを立て続けに失敗し、それ以降クラブではほとんどPKを蹴っていません。
PKを蹴っていれば、何度も得点王になっていたでしょう。
ピッチでは凄まじい暴れっぷりを見せましたが、ピッチを離れると物静かな人物だそうです。
カタールに行ったのは、大好きな「ポロ」がしたかったからとも言われています。